【はつこいがこわれる話】(SV)

「もう治っていますよ。元々骨には異常はありませんでしたから。まだ痛むようなら、湿布を出しておきましょうか」
「先生、骨に異常がないっていうことは――」
「ええ大丈夫ですよ。また走れますから」
初老の医師の声がひどくやさしく聞こえた。
「――そうですか。良かったな、和秋」
自分よりも遥かに、付き添い恵史の方が安堵していることが、変におかしくなる。
本当に良かった、と喜びを露わにした恵史に肩を抱かれ、診察室を後にする和秋の背中に、医師が優しく声を掛けた。
「岸田君、お大事に」
「――…」
足が疼く。
返す言葉を見付けられず、和秋はただそっと頭を下げた。
――いい。
――もう、このままで、いい。
「恵先生、俺のタイム、ずっと落ちっぱなしやったの知ってた?」
静かに口を開いた和秋に、恵史は一瞬黙り込む。不自然な沈黙を誤魔化すように、恵史は自分で淹れた珈琲を口に運んだ。母親はいつも通り、まだ帰ってきていない。親の不在にも慣れたもので、恵史は和秋を送ったついでに珈琲を求めた。
「――おまえの調子があまり良くないことは、監督から聞いていたよ」
そう広くはないリビングで、恵史が返した言葉に和秋は眼を伏せる。多分、知られているのだろうとは思っていた。陸上部の監督と恵史は旧知の仲だと随分前に聞いている。
「タイムが伸びずにスランプに陥ることは誰にでもある。これを機にゆっくり休んで欲しいと言っていたよ」
「――ゆっくり?」
笑いたくなる。ゆっくり休め、そんなふうに今更気遣われたところでどうなるだろう。
「ずっと休んどけの間違いやないんか」
「和秋」
険しい声で恵史が顔を顰める。
「そんなことを言うもんじゃない。自分を心配してくれてる人に対して――」
「……心配?」
笑いたくなって、泣きたくなった。
ああ、この人は知らないのだと、どこか絶望に近い気持ちで思う。
ほんの少し前、開こうとした部室の扉の前で、和秋が聞いてしまったあの言葉を、この人は知らない――。
「……期待外れの部員でも、心配してもらえる?」
結果を残せたのは一年時の前半だけで、残りはタイムが下がっていく一方だった。スポーツ推薦で入学したのにこの有様だと自分を罵ってはいたが、それをそのまま他人の口から聞いてしまえば、伸し掛かる胸の重みがまるで違った。
耳から離れない。
期待外れだと自分を罵った、等しく部員全員の味方だと思っていたあの人の声が。
ドアノブを握ったまま、和秋を凍り付かせたあの声が。
甦る度に、消えてなくなりたい気持ちに駆られた。
――ごめんなさい、
「俺ぜんぜん役立たずやけど、なんもでけへんかったけど、それでも心配してもらえるかなあ……」
――あなたの期待に応えられなくて、ごめんなさい…
がた落ちしたタイムを上げようと躍起になればなるほど、タイムは落ちていく。その度に溜息を吐かれている気がした。
その度に、なんて孤独なスポーツなのだろうと痛感した。
誰一人として手を差し伸べてくれる人はおらず、それどころかタイムが落ち続ける自分の醜態を、どこかで誰かが喜んでいる。それはそのはずで、中学でレコードを大幅に更新した和秋は、入部当初から他の部員と扱いが違っていた。和秋が望む望まないに関わらず、監督や教師からは多大な期待が一身に浴びせられ、それに向けられる視線が、少しばかり苦いものであっても仕方がない。
この状態では走っていても誰からも受け入れて貰えず、しかし走ることを止めてしまえば、今かろうじて得ている愛情も、きっとこの掌からすり抜けて行くのだ。
「俺、走れへんようになったら、みんな見捨てるかなあ……」
自分はどうすればいいのだろう。
このまま走り続けても一筋の光も見えてこない。
しかし走らなければ、恵史から与えられている期待も愛情も失ってしまう。
「――こんなんやったら、……先生、からも、見捨てられ……」
走らなければ。
走って走って、認めてもらえるタイムを出せるまで、走り続けて――。
――足が疼く。
痛みに、気が付けば顔を歪めて泣き出していた。
「和秋……」
「せんせ…、俺どうしたらええの……ぁ、あし、ぜんぜん動かへんねん…っ」
ならば走らなければならない。絶対に喪えないものがあるのなら、どんなに辛くても走り続けよう、この人の期待を裏切らないように、誉めてもらえるように、ちゃんと前を向いて走っていよう。
「…走ろ、思うてグラウンド立ったら、足、痛なるねん……こんなんやったら、あかんて思うてる、けど、足が……っ」
しゃくりあげながら切れ切れに告げた言葉に、恵史が唖然としているのが気配で判る。
本当に呆れられてしまったかもしれない。このまま見捨てられてしまうかもしれない。
――なら、もう、
――走れなくても、いい。
「……ごめん」
恵史が唐突に落とした呟きに顔を上げると、彼は顔を歪め、痛ましげな表情で和秋の泣き顔を見つめていた。涙に濡れたこの顔は、きっと情けないことになっているに違いない。
「そんなに辛かったのに、気付いてあげられなくてごめんな」
恵史にこんな顔をさせるくらいなら、早く泣き止まなければいけない。
「和秋、ずっと頑張ってたんだな。――ごめんな、先生気付いてやれなくて。ごめんな、……よく頑張ったな」
泣き止まなければならないと思うのに、そんなふうに優しい声で謝られてしまえば、もう涙を止める術はなかった。
「――もう頑張らなくて良いんだよ」
もう少しで声を上げて泣き出してしまいそうになる。代わりに鼻を啜るとみっともない嗚咽が漏れた。一度口から滑り落ちた嗚咽は、次から次へと溢れて止まらない。
「せんせ…っ、俺、も……走りたない……っ」
「……うん」
良いんだよ、と優しい掌が、零れる涙を掬い上げた。
「……今おまえに足りないのは、少しの休息と睡眠と……それから、人に甘えること」
和秋の眠れない夜を教えるように、目の下にうっすらと浮かんだ隈を、恵史のやさしい指がなぞった。
「先生だって、おまえのお母さんだって、おまえをずっと心配してる。走れなくなったくらいで、どうしておまえを見捨てたりするんだよ」
声は沁み入るように、ボロボロになった心を柔らかく包み込んだ。もうこのままじゃ駄目になってしまうとまで思った傷を、そっと癒してくれる。
「――ほんま、に?」
衝動に似た強い感情が溢れ出しそうになる。
――この人のことが、好きだ。
「せんせ、俺のこと、見捨てへん……?」
いつからか、この人にだけ見ていてほしかった。この人が見守ってくれるなら、それだけで良いと思うようになった。
ひどく静かで、密やかな想い。恋にはならぬようにと留めてきたそれは、しかし一度意識してしまえば簡単に胸に棲みついてしまう。
「……俺、走れへんようになっても、見捨てへん?」
子供をあやすように抱き締めたこの腕が、ずっとずっと欲しかったのかもしれない。
確かめるようにそろそろと口にした言葉に、恵史は強く頷いた。
「……ぜったいに?」
「絶対に」
恵史は少しだけ笑ってから、ふと表情を引き締めると改めて和秋の眼を真っ直ぐに見つめた。
「おまえをずっと守っていこうって決めたんだ。だから、」
もしかしたら走れるかもしれない、この人が背中を押してくれるなら、自分は何度だって立ち上がれるかもしれない。
止まりかけた涙は、続いた恵史の言葉に凍り付いた。
「……和秋、俺は、おまえの父親になってもいいかな」
一瞬耳を疑う。それは――
「……恵先生、何言うてんの?」
「本当は――もう少し先に言おうと思っていたんだ。……だけど、今日のおまえの姿を見ていたら、少しでも早く傍にいてやらなきゃならない気がして……俺、弓子さんとおまえの家族になっても良いかな」
「……先生、母さんと……?」
それは一体どういう意味だと、確認せずとも、答えはもう決まっている。
「先月弓子さんにプロポーズして、あとは和秋さえ賛成してくれれば……結婚しようと思っている」
叫び出したい衝動に、和秋は唇を噛み締めた。
なら、あなたのやさしさは、最初から自分に向けられたものではなかったのかもしれない。そんな恐ろしい仮定を叫ぶことなど出来なかった。
「……おまえの家族になりたいんだ」
やさしい言葉は、しかし胸を深く抉った。
さっき癒されたばかりの傷を、再び痛め付けられている。
どうして、と。
そんな言葉を、この優しい人に投げ付けることがどうして出来ただろう。
「――…ええよ。俺恵先生のこと好きやし」
涙が止まらない。
後から後から零れるこの涙は、いったい何だろう。
何を嘆く涙なのか、もう自分でも判らなかった。
「世話ばっかかかるひとやけど、よろしくな」
笑おう。
「和秋、良いのか?」
ありがとう。やさしくしてくれて。
あなたが一番に愛しているのは、自分ではなかったけれど――。
――好きです。
――あなたのことを、ずっと、
告げられない言葉を胸に仕舞いながら、和秋は泣いたまま笑った。
「……せんせい」
泣き顔で、――それでも、上手に笑った。
「おめでとう」
――もう、走れなくても、
誰にも愛されなくても、いい。

 

 

 
04年1月焼却炉入り

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