【いつか】(SV)ぜんぶのさいごの話

例えば何が違っているかと考えたときに、即答できるような答えを和秋は持ち合わせていない。強いていえば、意固地になって関係に名前を付けることを拒絶していることが違いかもしれないが、それを言ってしまえば以前の自分たちがセオリーに則った恋人だったのかどうかも怪しい。そう思えば何て変哲な関係だったのだろうと思う。和秋が一般的に思い描く恋人たちのイメージとはあまりにも掛け離れている。以前も、そして今も。
そんなことをつらつらと考え、また昔を思い出してほんの少し切ない気持ちでいた和秋の思考をぶった切ったのは、他の誰でもない松岡だった。
「……なんでおまえがこんなところにおんねん」
帰宅途中の和秋がばったり目にしたのは、校門で所在なげに佇むかつてのチームメイトの姿だった。
ここは自分の通う大学のはずで、どうして他の大学に通っているはずの松岡がこの場にいるのかが解せない。ここの学生の誰かに用事があるのだろうかと好意的に考えたのも束の間、松岡はいつもの喧嘩口調で和秋の問いに答えた。
「それはこっちの台詞や」
なんだそれは。思わず和秋は顔を顰める。
「そんなこと言われてもな。俺のガッコやっちゅーの」
この大学に所属する自分が、帰宅しようと校門から出てきただけで、誰に何を咎められることがあるだろう。
どう考えてもこの場所にイレギュラーなのは松岡の方で、しかし自分には関係のないことだと振り切ってその前を通り過ぎようとした和秋を引き止めたのは、聞き慣れた声だった。
「矢野、待って」
松岡の肩越しに、見慣れた奥村の顔が覗く。
「奥村、おったんか?」
「さっきから」
丁度和秋からは死角になって見えなかったらしい。奥村は眉を潜め、松岡を諌めた。
「そんなことを言うために来たのか」
「…………」
抑揚なく、しかし厳しい声で咎められた松岡は、叱られた子どものように唇を尖らせて俯いた。
何なんや。
俯いて地面を蹴っている松岡と、いつものように表情のない奥村を見比べて、和秋は首を傾げる。
約束もなく奥村が自分に逢いに来るのは珍しいことで、それ以上に松岡を伴っていることが意外でならない。それなりに用事があるのだろうかと首を傾げると、奥村が唐突に口を開いた。
「傷はもう平気か」
「あ? ……ああ、うん。もう痕残ってへんやろ? 口ん中ももう治ったし、全然平気」
慌てて答えると、奥村はほんの少しだけ笑みを落とし、「そうか、」と安堵を見せた。笑みを見せたのは一瞬で、すぐに表情をなくすと、何か言いたげに松岡の顔を見上げる。
だから何なんだ。
目の前で交わされる無言の会話を言葉もなく見つめていた和秋に、松岡が徐に頭を下げた。
「――すまんかった」
「……は?」
それだけを早口で言ってしまうと、松岡は勢いよく頭を上げ、和秋に背中を向けて歩き出す。言うだけ言って去ってしまうつもりらしい。
呆然とその背中を見つめ、
「……何や、あいつ」
ぽつりと呟きを落とした和秋に、奥村が答えた。
「謝りたかったらしい」
「いや、見たまんまやんけ」
「僕もあいつの考えることはよく判らない」
ただ、と一度言葉を区切り、奥村も松岡の背を追い、ゆっくりと歩き出す。
「謝りたいから一緒に来てくれと言われた。ひとりで君に会いに来て、避けられるのが嫌だったんだろう」
「……そんな殊勝なヤツかい」
自分勝手に歩き出してしまった二人を追いかけ、慌てて奥村と肩を並べた和秋は、先を行く松岡の背中を胡乱臭げに見つめた。
松岡は、避けられるのが嫌だから誰かに一緒にいてほしいなんて、そんな弱気なことを言う男だっただろうか。自分の考えに、否と首を振る。松岡はもっと自信家で、いつだって強気だったはずだ。だけどそのくせ愛嬌があった。だから、嫌いではなかった。
「僕が矢野を呼び出そうかと言ったときも、自分から会いに行くと言っていた。――自分の名前を出して、君が来てくれるとは思えないと」
そんなふうに弱い松岡の部分なんて、知らずにいた。そう、自分が知らなかっただけなのだろうと、和秋は少しだけ笑いたくなる。
「――阿呆やな」
この間奥村を交えて再会したときだってそうだった。彼は変わらず、昔のままの痛い輝きで自分の前に現れた。自分の過去にも現在にも誇りを持って、和秋にはない輝きを持って。
「そう思われても仕方のないことをした」
「……そうでもない」
なのに、和秋が自分には会いたくないかもしれないという、それだけの些細なことを気に病んでいたらしい松岡の背中を、くすぐったい思いで見つめた。
――可愛いところもあったんやなあ。
「さっき謝ってもろたしな。気にすることなんか、なんにも残ってへんやんか」
知らなかった、気付かないままでいた。
まだ、遅くはないだろうか。
まだ間に合うだろうか。
少しのやさしい気持ちと、嬉しさとに胸を占められながら、和秋は少しだけ駆けると松岡の背中に追いつき、その肩を乱暴に叩く。
「なあ松岡、俺ちょっと時間余ってんねん。暇やったら飯付き合えや」
「なっ……」
驚愕に目を見開いてそれきり言葉を失ってしまった松岡を余所に、少し後ろを歩いている奥村を振り返り、和秋は掌を空に泳がせた。
「奥村も行くやろ?」
遠めに見ても判る。奥村がおかしそうに笑って、そっと頷いたのが。
「お、俺は行かへんぞ」
「何言うてんねん、おまえわざわざここまで来てもう帰るつもりなんか。無駄足やん」
「おまえなあっ……」
あくまで自分のペースで話を運ぼうとする和秋に、松岡は呆れたように口を開け、少しの沈黙のあと、俯いて笑った。
「……悪かったな」
「うん」
確かに耳に届いた、気を抜けば風にさらわれてしまいそうな小さな声を受けて、和秋もまた笑った。
「……俺も、ごめん」
嬉しいと、なぜか唐突に思う。
――嬉しい。
夏の気配が混ざり始めた暖かな風に撫でられて、心の底からそう思う。笑えなかったあの頃の思い出が違った形で今この手にあることを。
嬉しいと、心から思った。
「それで、どうしてそんな話になったんだ」
「いや、俺も知らへんかってん。あのひとがこっちで進学してること」
どうしてこんなことになったのか、は、まさに自分の心境である。
松岡たちと少し早い夕食を摂った後、いつものように雄高のマンションを訪れた和秋は、今日の経過を話して聞かせた。
思わず声が弾んでしまったのは仕方のないことで、それも過去擦れ違ったまま別れたチームメイトと違う形で付き合いをスタートさせた嬉しさを、そのまま雄高に伝えたかっただけのことだ。
嬉しいと感じた瞬間、この感情を誰に一番伝えたいかと考えれば、すぐにこの男の顔が浮かんでしまう。そんな自分を今更嘆いても仕方がなく、ただ思い出すままに松岡との会話の内容を話していた、それまでは多分問題なかったのだろう。
「松岡もこっちで会うまで知らへんかったみたいで、今日昔のこと話してたときについでみたいに言われただけで」
なぜこんなにもしどろもどろになりながら言い訳染みたことを口にしなければならないのだろう。それもこれも、威圧感たっぷりに自分の身体をソファに押しつけている雄高のせいだ。
「それで?」
「それでって、それだけや。確か先輩と付き合うてたやろ?って訊かれたから、うん、て……」
ファーストフード店でハンバーガーに噛み付いていたときに松岡が口にした名前は、ひどく懐かしい人のものだった。宮本真樹と言う名のその人は和秋のひとつ上の女性で、高校時代はバレー部に所属していたはずだとぼんやり思い出す。そう、背の高い人だった。和秋と並んでも、身長差は一センチニセンチほどのものだっただろう。
――宮本先輩、こっちで進学してはるで。
――ほんま?
――やっぱおまえも知らんかったんか。俺もこないだ街でばったり会ってな、えらい驚いたわ。
三ヵ月か四ヶ月の間だけ恋人だったその女性を、懐かしいと思う。しかしただそれだけだ。
――おまえのことも覚えとったで。えらい美人さんになってたわ。昔っから綺麗やったけどなあ。ちょっとあのころの話したけど、おまえから振ったんやって?
――は? 俺振ってへんよ。自然消滅みたいな感じやなかったかなあ……。
確かにアプローチをしてくれたのは真樹の方からで、自分も彼女を好きになったからこその付き合いだった。しかしある日連絡がぱったり途絶えてしまったのだ。
――十二月か、一月かな。いきなり連絡が取れへんようになって、ほんで俺もそのころスランプやったしごちゃごちゃしてたから、そのまんまになってん。
――宮本先輩、クリスマスにおまえが約束の場所に来てくれへんかったから振られた思って連絡するの止めたて言うてたぞ?
そう言って松岡は、和秋にしてみれば寝耳に水の話を次々に語った。クリスマスも約束も全て和秋には覚えがない話で、余りの驚愕に噛み付く勢いで松岡に詰め寄ったのだ。
――なんやそれ、俺知らんでそんな話。クリスマスに誘われた記憶もあらへんし、
――陸部の二年に、家で待ってるから来てくれって時間伝言頼んだって言うてたで?
――二年って、誰や。
――確か矢沢先輩て言うて……あっ!
ちなみにこの間、奥村はあまり興味がなさそうな顔をして黙々とポテトを食んでいた。他人の恋愛事、しかも過去の話には興味がないらしい。
「それで、おまえが振られた原因っていうのは何だったんだ」
そして雄高の機嫌が急激に下降していることに気付いたのは、真樹の話を口にしてから随分後だ。もしかして、と思ったときにはもう遅かった。
「や、やから、その矢沢って人が伝言揉み潰して俺に言わへんかってん、多分嫌がらせで」
和秋としては笑える過去の話として口にしたことでも、雄高は笑うつもりになれなかったらしい。あれよあれよという間に雄高は不機嫌になり、勢いで押し倒されて今に至っている。なぜ機嫌が悪くなると押し倒そうとするのかは判らないが、雄高なりの不愉快だと言う意思表示らしい。
――そうか、矢沢先輩、おまえによぉ嫌がらせしてたもんな……。
――嫌がらせ言うても、それはあんまりや。真樹さんにも迷惑かけてんやんか……。
自分に害が及ぶだけならまだしも、矢沢のその嫌がらせは真樹をも傷付けた。今だからこそ笑えるものの、そのときもしも矢沢が真樹の伝言をわざと自分に伝えなかったことを知っていたら、一発や二発殴り付けていたかもしれない。
「嫌がらせか。随分性質が悪いな」
「やろ? 笑えんようなことされたなあって話してただけやねん」
真樹のことを思い出せば、やさしくて、そしてほんの少し強気なところのある前向きな女性だったことしか思い出せない。何かあればすぐに立ち止まってしまいそうになる自分のことを、よく叱咤してくれていた。
矢沢が妨害していなければ、まだ想いは続いていただろうか。――多分、それはないだろうと、曖昧に考える。やさしくて、好きで好きで、恋人だった人。セオリーに則った恋人関係を続けていた間、確かに自分はあの人に恋をしていた、ような気はしている。
「……どうでもいいのか?」
上から見下ろしながら尋ねた雄高の低い声に、一瞬言葉に詰まる。
「そら、腹は立つけどな」
矢沢のしたことは到底許せるものではないし、当人を目の前にすることがあるなら、今でも文句のひとつぶつけてしまうかもしれない。けれど終わったことだと最終的には笑える自信があった。
「腹は立つけど、どうにもならへんやろ。もう昔のことやし、真樹さんも俺のことなんかどうでもええやろし。それに、」
仰向けに倒れた体の上に、支配するように乗っかった雄高を見上げ、その腕に手をかける。ゴツゴツした固い男の身体には、柔らかい場所なんてひとつもない。
「……ただのおっさんやのになあ」
そのまま掌を移動させて、どんな場所に触れても、真樹の身体のように柔らかくて気持ちのいい部分は見付からなかった。
「今は胸もないただのおっさんに惚れてん。しゃあない」
もしも万が一、ありえないことだとしても、真樹の気持ちが自分に残っていたとしても。
気持ちのいい柔らかさなんて持っていない、この身体がいいのだから仕方がない。
「あ、俺別に巨乳好きやあらへんから、気にせんときや」
笑いながら告げると雄高は黙り込んだ後、長い溜息を聞かせて、ただ一言、
「……そういう問題か?」
と呟いた。
その低い声があまりにもおかしく響いて、和秋は思わず声を立てて笑う。
もちろん巨乳が問題点なわけもなく、しかし律儀にそう呟いた雄高が愉快で堪らない。
腕の中で身を捩らせながら笑い出した和秋を見下ろして、また雄高は短い吐息を落とす。
「俺も巨乳好きじゃないから安心しろ」
「え、嘘やん。好きそ……ッ、」
笑い転げながら放った声は、途中奇妙に途切れて消える。雄高の唇が首筋に触れた所為だ。薄い皮膚に押し当てたまま唇を動かされると、覚えのある感触が背筋が流れる。
「も、何やねん……」
思考と行動がどう繋がっているのか読めないのはいつものことで、戯れるような愛撫に大した抵抗もせず、和秋は雄高の頭を両腕で包み込んだ。
「……誰が巨乳好きだって?」
「や、なんとなく。イメージ的に」
他愛がない。けれどこの空間も時間も、なくてはならないものだと認めるには随分時間がかかった。
「そんで、ほんまに好きなん?」
「どっちでもいい。――どうしてそれに拘るのかが判らないんだが」
色気のない会話を交わすうちに雄高の顔が近付いてきて、合図もなく和秋は自然に瞼を落とした。キスをするときに目を閉じてしまうのは何故だろう。そんなことがふと頭の隅に過ぎる。答えが出る前に雄高の暖かい唇が触れた。少しずつ少しずつキスの角度が深まる毎に、そんなことはどうでもいいように思えてくる。今目を開けたら、雄高がどんな顔をしているのか。それを少しだけ知りたいような気もしたけれど。
「……何か考えごとでもしてるのか?」
唇が少しだけ離れて囁いた。薄らと瞼を上げて仰ぎ見た雄高の顔は、近すぎて逆によく見えない。
「なんにも考えてへんよ」
思考は常に、恋人と友人との境界線の上にあって、何かのスイッチがなければ、どちらかには傾かない。
「考えてるとしたらあんたのことくらいや」
だから早くスイッチを入れてほしい。素直じゃないと叱られる、そんな自分のスイッチを入れて、傾けてほしい。
表情の見えない雄高が、それでも少しだけ笑った気配がして、再び唇が重なり合う。今度こそ顔を見ていてやろうと瞼を閉じず、目を凝らしたそのとき、聞き慣れた電子音が耳を打った。
「……電話やで」
単調な音を奏でる電話は、急き立てるかのように雄高を呼んでいる。雄高は動きを一瞬止め、しかし延々と鳴り続ける電話を無視することも出来ず、結局和秋の上から退いた。
「――はい」
受話器を上げ、少しだけ不機嫌そうな低い声で応対する雄高の背中を眺めていると、いいタイミングだったと笑う気にさえなれる。スイッチが完全に入りきる前に途切れてしまった戯れを、どうしようかと首を傾げていると、ほんの僅かに強張った雄高の声が耳を打った。
「判りました、すぐに行きます。……お世話になります」
緊迫感に似たものを含ませた声で礼を言いながら、雄高はメモを書き殴ると受話器を置いた。緊急事態かと視線を遣った和秋を見て、
「――馬鹿がひとりぶっ倒れた」
溜息を吐いた。
「馬鹿? 誰のことや」
「筆頭馬鹿。――いつから俺はあいつの緊急連絡先になったんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、雄高は既に出かける支度を始めている。さっき取ったメモは、病院の名前でも訊いていたのだろうか。
「……それって恭一さんのことか」
それならば、もしかしてあの幼馴染みのことではないか。ならばどうして倒れたのだと慌てて口を開き掛けて、結局噤む。自分が慌てている場合ではない。
「あいつの担当が家でぶっ倒れてる恭一を見付けて病院に運んでくれたらしい。――大したことはないみたいだが、ニ、三日は入院するらしいから、一旦恭一の家に寄るぞ」
雄高は簡単に説明をすると、車の鍵を片手に和秋を急かした。まだぼんやりとソファに座り込んでいた和秋は慌てて立ち上がり、その背中を追う。
「家って、恭一さんが病院におるんやったら今は誰もおらへんやろ?」
「合鍵は持ってる」
「……」
――どんな幼馴染みや。
内心で毒づきながらも、当たり前のように誘われたことを、そしてこの部屋に置き去りにされないことを安堵している自分を見付ける。
それでも適わないと思うのはこんなときだ。本人たちがどんなに速攻で否定しようとも、相変わらず雄高は恭一に甘い。
「恭一さん、平気やろか」
「平気だろ。あいつのことだから、倒れたって言っても食中り程度に決まっている」
冗談を混ぜたひどい言い草なのに、雄高の顔は少しも笑っていない。駐車場へ降り、車に乗り込んでから気付いたいつもより乱暴な手付きも、運転中は片時も手放さない煙草を忘れてしまっていることも、全ては雄高の憂いを表している。なのに気付かれない振りをするのだろう。恭一を前にしたとき、心配の欠片も見せず、きっと雄高は悪態を吐くだけだと容易く想像が出来た。
「……阿呆やなあ」
違いなんてものは、未だによく判らない。
けれど自分たちは、ほんの少しだけ変わった。
何があっても傍にいるのが当然のように、決して置き去りにはしないように。――そう思ってくれているのなら、あの頃とは確かに違っている。
「やからあんたは、不器用やって言うてんねや」
それから多分、自分も、あの頃とは違っている。
――少なくとも、ほんの僅かには、この人のことが理解できているような、そんな気がした。
「何の話だ」
怪訝に眉を寄せた雄高に、「内緒」と笑ってから和秋は窓の外の風景に視線を移す。恭一は本当に平気だろうか。大事に至らなければ良いが、果たして由成はこのことを知っているのだろうか。
「――なあ、」
恭一についても由成についても、雄高はそう多くの情報を与えてくれるわけではないから、自分で考えなければならないことが大半を占めている。知っているのは、由成は事情があって実家に帰ってしまったという、ただそれだけの話で、推測も判断も何もあったものではない。
それでも、と思う。それでも、あの切なくてやさしい人たちに、何かできることはないか。
「由成君に連絡してもええ?」
「……好きにしろ」
雄高はぶっきらぼうな調子で短く答えただけだったが、その中に肯定の響きを感じ取り、和秋はすぐに携帯を取り出した。操作して呼び出した名前を確認し、ボタンを押す。一回、二回。
「……離れて、」
三回、四回。呼び出し音が響く。相手はまだ出ない。
「離れて、ええことってあったんかな」
五回、六回。――雄高が何かを答える前に、呼び出し音が途切れた。
『――はい』
――いいことなんて、多分、ひとつも。
「由成君? 俺やけどな、」
泣きたくなるのは、どうしてだろう。
『和秋さん? ……どうしたんですか』
珍しいねと、由成が静かに笑う。
どうしてだろう。――泣きたくなるのは。
「恭一さんが倒れはったんやって。今俺も雄高さんと一緒に病院に行ってるんやけどな、――」
電話の向こうで、由成が息を飲む気配が伝わる。声が少しだけ震えて、どうして、と呟いた。
心地好い震動に身を任せながら、和秋は漸く、雄高の痛みを理解した。
END

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