例えば何が違っているかと考えたときに、即答できるような答えを和秋は持ち合わせていない。強いていえば、意固地になって関係に名前を付けることを拒絶していることが違いかもしれないが、それを言ってしまえば以前の自分たちがセオリーに則った恋人だったのかどうかも怪しい。そう思えば何て変哲な関係だったのだろうと思う。和秋が一般的に思い描く恋人たちのイメージとはあまりにも掛け離れている。以前も、そして今も。
そんなことをつらつらと考え、また昔を思い出してほんの少し切ない気持ちでいた和秋の思考をぶった切ったのは、他の誰でもない松岡だった。
「……なんでおまえがこんなところにおんねん」
帰宅途中の和秋がばったり目にしたのは、校門で所在なげに佇むかつてのチームメイトの姿だった。
ここは自分の通う大学のはずで、どうして他の大学に通っているはずの松岡がこの場にいるのかが解せない。ここの学生の誰かに用事があるのだろうかと好意的に考えたのも束の間、松岡はいつもの喧嘩口調で和秋の問いに答えた。
「それはこっちの台詞や」
なんだそれは。思わず和秋は顔を顰める。
「そんなこと言われてもな。俺のガッコやっちゅーの」
この大学に所属する自分が、帰宅しようと校門から出てきただけで、誰に何を咎められることがあるだろう。
どう考えてもこの場所にイレギュラーなのは松岡の方で、しかし自分には関係のないことだと振り切ってその前を通り過ぎようとした和秋を引き止めたのは、聞き慣れた声だった。
「矢野、待って」
松岡の肩越しに、見慣れた奥村の顔が覗く。
「奥村、おったんか?」
「さっきから」
丁度和秋からは死角になって見えなかったらしい。奥村は眉を潜め、松岡を諌めた。
「そんなことを言うために来たのか」
「…………」
抑揚なく、しかし厳しい声で咎められた松岡は、叱られた子どものように唇を尖らせて俯いた。
何なんや。
俯いて地面を蹴っている松岡と、いつものように表情のない奥村を見比べて、和秋は首を傾げる。
約束もなく奥村が自分に逢いに来るのは珍しいことで、それ以上に松岡を伴っていることが意外でならない。それなりに用事があるのだろうかと首を傾げると、奥村が唐突に口を開いた。
「傷はもう平気か」
「あ? ……ああ、うん。もう痕残ってへんやろ? 口ん中ももう治ったし、全然平気」
慌てて答えると、奥村はほんの少しだけ笑みを落とし、「そうか、」と安堵を見せた。笑みを見せたのは一瞬で、すぐに表情をなくすと、何か言いたげに松岡の顔を見上げる。
だから何なんだ。
目の前で交わされる無言の会話を言葉もなく見つめていた和秋に、松岡が徐に頭を下げた。
「――すまんかった」
「……は?」
それだけを早口で言ってしまうと、松岡は勢いよく頭を上げ、和秋に背中を向けて歩き出す。言うだけ言って去ってしまうつもりらしい。
呆然とその背中を見つめ、
「……何や、あいつ」
ぽつりと呟きを落とした和秋に、奥村が答えた。
「謝りたかったらしい」
「いや、見たまんまやんけ」
「僕もあいつの考えることはよく判らない」
ただ、と一度言葉を区切り、奥村も松岡の背を追い、ゆっくりと歩き出す。
「謝りたいから一緒に来てくれと言われた。ひとりで君に会いに来て、避けられるのが嫌だったんだろう」
「……そんな殊勝なヤツかい」
自分勝手に歩き出してしまった二人を追いかけ、慌てて奥村と肩を並べた和秋は、先を行く松岡の背中を胡乱臭げに見つめた。
松岡は、避けられるのが嫌だから誰かに一緒にいてほしいなんて、そんな弱気なことを言う男だっただろうか。自分の考えに、否と首を振る。松岡はもっと自信家で、いつだって強気だったはずだ。だけどそのくせ愛嬌があった。だから、嫌いではなかった。
「僕が矢野を呼び出そうかと言ったときも、自分から会いに行くと言っていた。――自分の名前を出して、君が来てくれるとは思えないと」
そんなふうに弱い松岡の部分なんて、知らずにいた。そう、自分が知らなかっただけなのだろうと、和秋は少しだけ笑いたくなる。
「――阿呆やな」
この間奥村を交えて再会したときだってそうだった。彼は変わらず、昔のままの痛い輝きで自分の前に現れた。自分の過去にも現在にも誇りを持って、和秋にはない輝きを持って。
「そう思われても仕方のないことをした」
「……そうでもない」
なのに、和秋が自分には会いたくないかもしれないという、それだけの些細なことを気に病んでいたらしい松岡の背中を、くすぐったい思いで見つめた。
――可愛いところもあったんやなあ。
「さっき謝ってもろたしな。気にすることなんか、なんにも残ってへんやんか」
知らなかった、気付かないままでいた。
まだ、遅くはないだろうか。
まだ間に合うだろうか。
少しのやさしい気持ちと、嬉しさとに胸を占められながら、和秋は少しだけ駆けると松岡の背中に追いつき、その肩を乱暴に叩く。
「なあ松岡、俺ちょっと時間余ってんねん。暇やったら飯付き合えや」
「なっ……」
驚愕に目を見開いてそれきり言葉を失ってしまった松岡を余所に、少し後ろを歩いている奥村を振り返り、和秋は掌を空に泳がせた。
「奥村も行くやろ?」
遠めに見ても判る。奥村がおかしそうに笑って、そっと頷いたのが。
「お、俺は行かへんぞ」
「何言うてんねん、おまえわざわざここまで来てもう帰るつもりなんか。無駄足やん」
「おまえなあっ……」
あくまで自分のペースで話を運ぼうとする和秋に、松岡は呆れたように口を開け、少しの沈黙のあと、俯いて笑った。
「……悪かったな」
「うん」
確かに耳に届いた、気を抜けば風にさらわれてしまいそうな小さな声を受けて、和秋もまた笑った。
「……俺も、ごめん」
嬉しいと、なぜか唐突に思う。
――嬉しい。
夏の気配が混ざり始めた暖かな風に撫でられて、心の底からそう思う。笑えなかったあの頃の思い出が違った形で今この手にあることを。
嬉しいと、心から思った。
「それで、どうしてそんな話になったんだ」
「いや、俺も知らへんかってん。あのひとがこっちで進学してること」
どうしてこんなことになったのか、は、まさに自分の心境である。
松岡たちと少し早い夕食を摂った後、いつものように雄高のマンションを訪れた和秋は、今日の経過を話して聞かせた。
思わず声が弾んでしまったのは仕方のないことで、それも過去擦れ違ったまま別れたチームメイトと違う形で付き合いをスタートさせた嬉しさを、そのまま雄高に伝えたかっただけのことだ。
嬉しいと感じた瞬間、この感情を誰に一番伝えたいかと考えれば、すぐにこの男の顔が浮かんでしまう。そんな自分を今更嘆いても仕方がなく、ただ思い出すままに松岡との会話の内容を話していた、それまでは多分問題なかったのだろう。
「松岡もこっちで会うまで知らへんかったみたいで、今日昔のこと話してたときについでみたいに言われただけで」
なぜこんなにもしどろもどろになりながら言い訳染みたことを口にしなければならないのだろう。それもこれも、威圧感たっぷりに自分の身体をソファに押しつけている雄高のせいだ。
「それで?」
「それでって、それだけや。確か先輩と付き合うてたやろ?って訊かれたから、うん、て……」
ファーストフード店でハンバーガーに噛み付いていたときに松岡が口にした名前は、ひどく懐かしい人のものだった。宮本真樹と言う名のその人は和秋のひとつ上の女性で、高校時代はバレー部に所属していたはずだとぼんやり思い出す。そう、背の高い人だった。和秋と並んでも、身長差は一センチニセンチほどのものだっただろう。
――宮本先輩、こっちで進学してはるで。
――ほんま?
――やっぱおまえも知らんかったんか。俺もこないだ街でばったり会ってな、えらい驚いたわ。
三ヵ月か四ヶ月の間だけ恋人だったその女性を、懐かしいと思う。しかしただそれだけだ。
――おまえのことも覚えとったで。えらい美人さんになってたわ。昔っから綺麗やったけどなあ。ちょっとあのころの話したけど、おまえから振ったんやって?
――は? 俺振ってへんよ。自然消滅みたいな感じやなかったかなあ……。
確かにアプローチをしてくれたのは真樹の方からで、自分も彼女を好きになったからこその付き合いだった。しかしある日連絡がぱったり途絶えてしまったのだ。
――十二月か、一月かな。いきなり連絡が取れへんようになって、ほんで俺もそのころスランプやったしごちゃごちゃしてたから、そのまんまになってん。
――宮本先輩、クリスマスにおまえが約束の場所に来てくれへんかったから振られた思って連絡するの止めたて言うてたぞ?
そう言って松岡は、和秋にしてみれば寝耳に水の話を次々に語った。クリスマスも約束も全て和秋には覚えがない話で、余りの驚愕に噛み付く勢いで松岡に詰め寄ったのだ。
――なんやそれ、俺知らんでそんな話。クリスマスに誘われた記憶もあらへんし、
――陸部の二年に、家で待ってるから来てくれって時間伝言頼んだって言うてたで?
――二年って、誰や。
――確か矢沢先輩て言うて……あっ!
ちなみにこの間、奥村はあまり興味がなさそうな顔をして黙々とポテトを食んでいた。他人の恋愛事、しかも過去の話には興味がないらしい。
「それで、おまえが振られた原因っていうのは何だったんだ」
そして雄高の機嫌が急激に下降していることに気付いたのは、真樹の話を口にしてから随分後だ。もしかして、と思ったときにはもう遅かった。
「や、やから、その矢沢って人が伝言揉み潰して俺に言わへんかってん、多分嫌がらせで」
和秋としては笑える過去の話として口にしたことでも、雄高は笑うつもりになれなかったらしい。あれよあれよという間に雄高は不機嫌になり、勢いで押し倒されて今に至っている。なぜ機嫌が悪くなると押し倒そうとするのかは判らないが、雄高なりの不愉快だと言う意思表示らしい。
――そうか、矢沢先輩、おまえによぉ嫌がらせしてたもんな……。
――嫌がらせ言うても、それはあんまりや。真樹さんにも迷惑かけてんやんか……。
自分に害が及ぶだけならまだしも、矢沢のその嫌がらせは真樹をも傷付けた。今だからこそ笑えるものの、そのときもしも矢沢が真樹の伝言をわざと自分に伝えなかったことを知っていたら、一発や二発殴り付けていたかもしれない。
「嫌がらせか。随分性質が悪いな」
「やろ? 笑えんようなことされたなあって話してただけやねん」
真樹のことを思い出せば、やさしくて、そしてほんの少し強気なところのある前向きな女性だったことしか思い出せない。何かあればすぐに立ち止まってしまいそうになる自分のことを、よく叱咤してくれていた。
矢沢が妨害していなければ、まだ想いは続いていただろうか。――多分、それはないだろうと、曖昧に考える。やさしくて、好きで好きで、恋人だった人。セオリーに則った恋人関係を続けていた間、確かに自分はあの人に恋をしていた、ような気はしている。
「……どうでもいいのか?」
上から見下ろしながら尋ねた雄高の低い声に、一瞬言葉に詰まる。
「そら、腹は立つけどな」
矢沢のしたことは到底許せるものではないし、当人を目の前にすることがあるなら、今でも文句のひとつぶつけてしまうかもしれない。けれど終わったことだと最終的には笑える自信があった。
「腹は立つけど、どうにもならへんやろ。もう昔のことやし、真樹さんも俺のことなんかどうでもええやろし。それに、」
仰向けに倒れた体の上に、支配するように乗っかった雄高を見上げ、その腕に手をかける。ゴツゴツした固い男の身体には、柔らかい場所なんてひとつもない。
「……ただのおっさんやのになあ」
そのまま掌を移動させて、どんな場所に触れても、真樹の身体のように柔らかくて気持ちのいい部分は見付からなかった。
「今は胸もないただのおっさんに惚れてん。しゃあない」
もしも万が一、ありえないことだとしても、真樹の気持ちが自分に残っていたとしても。
気持ちのいい柔らかさなんて持っていない、この身体がいいのだから仕方がない。
「あ、俺別に巨乳好きやあらへんから、気にせんときや」
笑いながら告げると雄高は黙り込んだ後、長い溜息を聞かせて、ただ一言、
「……そういう問題か?」
と呟いた。
その低い声があまりにもおかしく響いて、和秋は思わず声を立てて笑う。
もちろん巨乳が問題点なわけもなく、しかし律儀にそう呟いた雄高が愉快で堪らない。
腕の中で身を捩らせながら笑い出した和秋を見下ろして、また雄高は短い吐息を落とす。
「俺も巨乳好きじゃないから安心しろ」
「え、嘘やん。好きそ……ッ、」
笑い転げながら放った声は、途中奇妙に途切れて消える。雄高の唇が首筋に触れた所為だ。薄い皮膚に押し当てたまま唇を動かされると、覚えのある感触が背筋が流れる。
「も、何やねん……」
思考と行動がどう繋がっているのか読めないのはいつものことで、戯れるような愛撫に大した抵抗もせず、和秋は雄高の頭を両腕で包み込んだ。
「……誰が巨乳好きだって?」
「や、なんとなく。イメージ的に」
他愛がない。けれどこの空間も時間も、なくてはならないものだと認めるには随分時間がかかった。
「そんで、ほんまに好きなん?」
「どっちでもいい。――どうしてそれに拘るのかが判らないんだが」
色気のない会話を交わすうちに雄高の顔が近付いてきて、合図もなく和秋は自然に瞼を落とした。キスをするときに目を閉じてしまうのは何故だろう。そんなことがふと頭の隅に過ぎる。答えが出る前に雄高の暖かい唇が触れた。少しずつ少しずつキスの角度が深まる毎に、そんなことはどうでもいいように思えてくる。今目を開けたら、雄高がどんな顔をしているのか。それを少しだけ知りたいような気もしたけれど。
「……何か考えごとでもしてるのか?」
唇が少しだけ離れて囁いた。薄らと瞼を上げて仰ぎ見た雄高の顔は、近すぎて逆によく見えない。
「なんにも考えてへんよ」
思考は常に、恋人と友人との境界線の上にあって、何かのスイッチがなければ、どちらかには傾かない。
「考えてるとしたらあんたのことくらいや」
だから早くスイッチを入れてほしい。素直じゃないと叱られる、そんな自分のスイッチを入れて、傾けてほしい。
表情の見えない雄高が、それでも少しだけ笑った気配がして、再び唇が重なり合う。今度こそ顔を見ていてやろうと瞼を閉じず、目を凝らしたそのとき、聞き慣れた電子音が耳を打った。
「……電話やで」
単調な音を奏でる電話は、急き立てるかのように雄高を呼んでいる。雄高は動きを一瞬止め、しかし延々と鳴り続ける電話を無視することも出来ず、結局和秋の上から退いた。
「――はい」
受話器を上げ、少しだけ不機嫌そうな低い声で応対する雄高の背中を眺めていると、いいタイミングだったと笑う気にさえなれる。スイッチが完全に入りきる前に途切れてしまった戯れを、どうしようかと首を傾げていると、ほんの僅かに強張った雄高の声が耳を打った。
「判りました、すぐに行きます。……お世話になります」
緊迫感に似たものを含ませた声で礼を言いながら、雄高はメモを書き殴ると受話器を置いた。緊急事態かと視線を遣った和秋を見て、
「――馬鹿がひとりぶっ倒れた」
溜息を吐いた。
「馬鹿? 誰のことや」
「筆頭馬鹿。――いつから俺はあいつの緊急連絡先になったんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、雄高は既に出かける支度を始めている。さっき取ったメモは、病院の名前でも訊いていたのだろうか。
「……それって恭一さんのことか」
それならば、もしかしてあの幼馴染みのことではないか。ならばどうして倒れたのだと慌てて口を開き掛けて、結局噤む。自分が慌てている場合ではない。
「あいつの担当が家でぶっ倒れてる恭一を見付けて病院に運んでくれたらしい。――大したことはないみたいだが、ニ、三日は入院するらしいから、一旦恭一の家に寄るぞ」
雄高は簡単に説明をすると、車の鍵を片手に和秋を急かした。まだぼんやりとソファに座り込んでいた和秋は慌てて立ち上がり、その背中を追う。
「家って、恭一さんが病院におるんやったら今は誰もおらへんやろ?」
「合鍵は持ってる」
「……」
――どんな幼馴染みや。
内心で毒づきながらも、当たり前のように誘われたことを、そしてこの部屋に置き去りにされないことを安堵している自分を見付ける。
それでも適わないと思うのはこんなときだ。本人たちがどんなに速攻で否定しようとも、相変わらず雄高は恭一に甘い。
「恭一さん、平気やろか」
「平気だろ。あいつのことだから、倒れたって言っても食中り程度に決まっている」
冗談を混ぜたひどい言い草なのに、雄高の顔は少しも笑っていない。駐車場へ降り、車に乗り込んでから気付いたいつもより乱暴な手付きも、運転中は片時も手放さない煙草を忘れてしまっていることも、全ては雄高の憂いを表している。なのに気付かれない振りをするのだろう。恭一を前にしたとき、心配の欠片も見せず、きっと雄高は悪態を吐くだけだと容易く想像が出来た。
「……阿呆やなあ」
違いなんてものは、未だによく判らない。
けれど自分たちは、ほんの少しだけ変わった。
何があっても傍にいるのが当然のように、決して置き去りにはしないように。――そう思ってくれているのなら、あの頃とは確かに違っている。
「やからあんたは、不器用やって言うてんねや」
それから多分、自分も、あの頃とは違っている。
――少なくとも、ほんの僅かには、この人のことが理解できているような、そんな気がした。
「何の話だ」
怪訝に眉を寄せた雄高に、「内緒」と笑ってから和秋は窓の外の風景に視線を移す。恭一は本当に平気だろうか。大事に至らなければ良いが、果たして由成はこのことを知っているのだろうか。
「――なあ、」
恭一についても由成についても、雄高はそう多くの情報を与えてくれるわけではないから、自分で考えなければならないことが大半を占めている。知っているのは、由成は事情があって実家に帰ってしまったという、ただそれだけの話で、推測も判断も何もあったものではない。
それでも、と思う。それでも、あの切なくてやさしい人たちに、何かできることはないか。
「由成君に連絡してもええ?」
「……好きにしろ」
雄高はぶっきらぼうな調子で短く答えただけだったが、その中に肯定の響きを感じ取り、和秋はすぐに携帯を取り出した。操作して呼び出した名前を確認し、ボタンを押す。一回、二回。
「……離れて、」
三回、四回。呼び出し音が響く。相手はまだ出ない。
「離れて、ええことってあったんかな」
五回、六回。――雄高が何かを答える前に、呼び出し音が途切れた。
『――はい』
――いいことなんて、多分、ひとつも。
「由成君? 俺やけどな、」
泣きたくなるのは、どうしてだろう。
『和秋さん? ……どうしたんですか』
珍しいねと、由成が静かに笑う。
どうしてだろう。――泣きたくなるのは。
「恭一さんが倒れはったんやって。今俺も雄高さんと一緒に病院に行ってるんやけどな、――」
電話の向こうで、由成が息を飲む気配が伝わる。声が少しだけ震えて、どうして、と呟いた。
心地好い震動に身を任せながら、和秋は漸く、雄高の痛みを理解した。
END
【なみだの話】(SV※R-18)
電話が繋がらない。
かと言って重要な用事があったわけでもないから、二回目に掛けた電話が延々と電子音を響かせていても、深く気にすることはなかった。
三回目に掛けた電話も、矢張り相手が出る気配もなく電話は繋がらない。
四回目に電話を掛けたときには、電源を切っておられるか電波の――そんな胸糞の悪い言葉が鼓膜を打った。
――さて。
和秋は考える。あの人の電話が繋がらないなんて、そう珍しくはないことだ。
彼はある特定の条件下にいるときだけ、和秋からの電話にも出ないことは、ここニヵ月ほどの付き合いで学習している。
どっちが上か大切にされているのか、それが優先順位だなんてことは考えないことにしている。そんなことを考えるのはただ不愉快なだけだ。
――由成君は合宿所にいてはるし。そしたらお兄さんの方かな……。
別に、別に、大した用事があったわけじゃないけれど――。
ただ、ほんの少しだけ不愉快なことに変わりはなかった。
「え、楠田君帰ってもうたん?」
和秋が所属しているのはソフトテニス部で、この合宿所には他にも幾つかのクラブが同時に合宿している。学校が所有している、山奥に建てられた合宿所だ。そんな辺鄙な場所にあるせいで、もちろん人の足では帰ることなど出来ようもない。和秋たちは明日迎えに来る送迎バスに乗って帰宅する予定だった。
そのバスを待たず、同じくソフトテニス部の後輩である楠田由成が帰ってしまったという話を聞いたのは、朝食を終えてすぐに開始した練習の最中だった。
「工藤が言うには、兄貴が夏風邪引いたとか言ってたな。俺知らなかったんだけど、あいつって兄貴と二人暮らしらしいぜ」
まだ寝惚け顔の情けない清田は、あくびを噛み殺しながら柔軟体操に励んでいる。部長がこの有様なら、部員全体も何となく覇気がなくとも仕方ない。
「そら大変やん。二人暮らしやったら楠田君以外、面倒見れるひともおらへんもんなあ――」
――ほんまは知ってるけど。
声には出さず、和秋は独りごちる。
そう、自分は知っている。楠田由成がその兄と二人暮らしであること。もしもその兄が本当に急病であれば、世話をする人物が由成以外にも確実に一人はいることを――知っている。
「ン、だから工藤が伝言に来て、あいつはすぐに帰ったらしいぜ。そういう事情なら無理に引き止めたって気の毒だし、合宿に参加してもらっただけでも有り難かったしな」
「俺に有り難いはないんかい、俺に」
「ははは。楽しいだろ合宿」
誤魔化すように爽やかに笑った清田を一睨みして、和秋は内心溜息を吐く。――どうやら予想は中っていたようだ。
当初、この合宿に参加する予定はなかった和秋を、無理矢理引っ張り込んだのは他でもなく清田だ。初めは渋っていたものの、説得に負ける形で結局は参加することになってしまった。合宿期間は二泊三日だ。その間バイトにも行けないのは痛かった。故に参加を見送るつもりだったのに、腹が立ったのだ。
ほんの少しの躊躇いもなく、行って来い、たまには学生らしく部活動に励め――そんな憎たらしい言葉で和秋を見送ったあの男に。
和秋の予定と彼の予定が噛み合わず、一週間も会わずに過ごし、漸くのんびりと話すことが出来た電話口で、あの男はそう言ったのだ。
――全く腹が立つ。
例えば合宿に参加しているこの三日間、もしも合宿には行かず和秋がただバイトを休んでいれば――或いは彼の予定が空けば――一週間振りに会えるなんてことは、考えもしなかったのだろう。
――自分だって絶対に、少しもそんなことは思いもしなかったが。
行ったるわ、ぼけっ――という子供染みた文句を叩き付けて、和秋は電話を切った。自分にとっては一週間も顔を見ていない事実が、彼にとってはたったの一週間に計算されるのだと、和秋はそのとき痛感させられたのだ。
寂しいだとか会いたいだとか。
そんなことを素直に口に出来るほど素直であれば、ここまで悶々とした思いは抱かなかった。
「――けど帰るって、どうやって帰ったん。走って帰るんは無理やろ、幾ら楠田君でも」
半ば予想が付いている疑問を、和秋は出来る限り普通に言った。
清田の答えは、矢張り予想通りで――
「兄貴の友達がここまで迎えに来てくれるらしいぜ」
和秋は頭を抱えたくなった。
「どうした矢野、顔色悪ィぞ」
「いや……えらい親切なお友達やね……」
頭を抱える代わりに、そう言うのがやっとだった。
えらく親切なお友達は――間違いなく、あの人だ。
楠田由成。
彼には多少面識がある。何しろ部活が同じなのである。お互い幽霊部員で顔を合わせる回数こそ少なかったが、ソフトテニス経験者が多い部員内で、由成と自分は全くの素人ということで練習中に組まされることは多々あったし、会話は多く交わしている方だと思う。
親しみ易い子だと言うのが和秋の第一印象だった。清田にしてみれば、悪いヤツじゃないんだが近寄り難いというのが彼の感想らしく、それは他の部員も同様らしかった。しかし和秋にしてみれば、確かに口数こそ少ないものの話し掛ければ反応は返るし、その反応とて随分しっかりしたもので、会話に困ることもない。気に入りの後輩だった。――あの人が世話を焼きたがるのも、わかると。
そしてその兄の、楠田恭一。
こちらには全く面識がない。ないにも関わらず、名前を覚えてしまっている。それこそ厭になるくらい覚えさせられてしまっているのだ。
あの人の口からその名前が上がることは殆どない。大概この名前を和秋に聞かせるのは、彼の担当編集者であるらしい神城という男だ。
――また楠田先生のところに行ってたんですか。
呆れた口振りで神城が諌めるのを、何度か聞いた。神城が言うには、暇さえあれば彼は恭一宅に入り浸っているらしいのだ。
そしてほんのニ、三度、楠田恭一と彼の電話での会話を傍で聞いていたことがある。
恭一――と、彼がそう呼んでいた。だから覚えてしまっている。
そしてあの男の電話が繋がらないとき、その原因は、ほぼ確実にこの二人のどちらかか――もしくは両方であることを、和秋は知っているのだ。
「おまえも大概上達しねえな」
「うっさいわボケッ」
そうやって清田と子供の喧嘩を延長させた遣り取りをしていても、ぼんやりと思考は別のところへ移っている。
間違いなく彼は今、楠田由成か楠田恭一かの傍にいるのだろう。そういうひとだ。
そんなことを考えていると、打ち返したボールが見事な曲線を描いて落ちた。――向かいのコートにいる清田から、遥かに離れた右の方向へ。
「どんどん下手になっていってねえか……?」
今和秋に課されている課題は、ラリー十本である。ラリーは続かなければ当然意味はない。しかし清田の決して遅くはない脚を持っても、和秋がボールを打ち返したへんてこな場所には到底追い付けなかった。
「んなわけあるかー!」
「勘弁してくれよ。来年一年入って来なかったらおまえに出てもらわなきゃなんねえんだから、団体戦。そんなんだと組まされる方が可哀想だろ。知ってるか? ソフトテニスってダブルスでやるんだぞ」
「も、頼むから黙っといてくれ……」
さすがにそこまで言われれば和秋とてへこむ。
「俺かてがんばってんねん……せやけど上達せえへんのや、しゃあないやんかっ」
「うわっ、泣くなって」
「泣くかボケー!」
へこんだって、こんなことでいちいち泣いていては先に進めない。自分がノーコンなのは承知のことで、どれだけ練習したってほんの少しも改善されないことも知っている。
「大丈夫だって、ノーコンは練習で治る。おまえの足には期待してっから」
「――慰められてるんか微妙や……」
だから泣いてなどいない。
繋がらない電話。
会わない一週間。
あの人の傍にいるのは自分じゃない誰か。
そんな小さなことに、いちいち泣いてなんかいられない。
合宿からアパートに帰り着いたのは、夕方に近い午後だった。丸々三日バイト休みを取っていて正解だったとしみじみ思う。体力には自信があったものの、久し振りに身体を動かしたのと散々清田に扱かれたせいで疲労困憊していた。
カン、カン、と足元で鳴る音を聞きながら鉄製の階段を登る。関節痛に時折顔を顰めながら階段を登り切ると、部屋の扉の前に、見慣れた人物が佇んでいた。
瞬時に、どうしようかと迷う。引き返したい衝動にも狩られた。
結局あれから連絡は取れないままで、会わない一週間に加え合宿中丸々三日間、和秋は放っておかれていたのだ。
怒っている。自分は確かに怒っているのに――。
真っ直ぐに彼へと向かう足は、疲れているせいだと思うことにした。わざわざ引き返してどこかに逃亡するほど、元気が余っていないのだ。
「遅かったな」
雄高は待ち侘びたと言った風に、ほんの少しだけ口元を緩めて微笑った。
「この時間に帰って来るんは予定通りやけどな」
無性に、ちくしょうと思う。そんな風に笑ったって、許してなんかやるもんか。
雄高の横を無表情に通り抜けて、ウィンドブレーカーのポケットから取り出した鍵で扉を開ける。どうぞと促してやることなんてしない。どうせこの男は躊躇いもせずに部屋に上がってくるのだから。
「そうか」
雄高は短く頷いた後、ぽつりと呟くように小さな声で言った。
「長かったな」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ和秋は言葉を失った。
「――何が長かった、や。たかが三日やろ」
少しの沈黙の後、努めてぶっきらぼうな声で言い放つ。
「その前も、一週間会ってない」
「あんたが行け言うたんやろ、合宿」
和秋に続いて、雄高は部屋に上がり込むと許可なく小さなソファに腰を降ろした。その隣に腰を降ろすことが何となく厭で、和秋はまず持っていたショルダーバッグを降ろすと中から洗濯物を取り出した。
「楽しかったか」
「楽しかったで。そらもう。どっかの誰かさんの携帯は繋がらへんしメールは返って来ィへんし散々やったけど、楽しかったで」
言ってしまってから、唇を噛む。どうして自分はこうも感情を抑えるという手段を知らないのだろう。事の他、この男の前ではその傾向が強くなっているように思う。これでは――妬んでいることがバレバレだ。
楠田由成と、その兄に。
「電話は余り好きじゃない」
雄高の顔を見ずに、黙々と持って帰った荷物の整理をしている和秋に、雄高の呟く声が聞こえた。
「メールもな。――会いたくなる」
和秋は思わず手を止めた。まだまだ片付けなければならない荷物はたくさんあるのだ。洗濯物を洗わなければならないし、今着ているウィンドブレーカーだってそうだ。早く着替えて洗濯物に出さないと。――なのに、手は動くことを忘れている。
「――楠田君、どうしたん?」
――降参だ。心の中で白旗を掲げる。
何ひとつ、雄高には勝てない。
どれだけ会いたくても寂しくても、ほったらかしにされて憤っていても。
この人は短い言葉だけで自分を打ち負かしてしまうのだから、最初から怒るだけ無駄なのだ。
「合宿、急に帰ってもうて、あんたも携帯繋がらへんし――何かあったんやろ」
ならばこれくらいは許されるだろうと、和秋は俯いたまま口を開いた。本当は、本人のいない場所でその人の話をすることは好まない。しかし何も知らないままでは、嫉妬しそうだった。――雄高の優しさの殆どを持っていってしまう、あの人たちに。
「あんたに連絡取れへんときは、恭一さんか楠田君とこに行ってるときや。――何かあったん?」
雄高は口を開かない。
ただ、ほんの少しだけ眉を寄せて、和秋を見つめていた。
「……言いたないんやったら、訊かへんけど」
付き合いの長さで言えば、最初っから負けている。自分が雄高を知ってからほんの二ヶ月、その何十倍もの時間を、あの人たちは共に過ごしているのだ。自分と恵史のようなものだろう。長い時間の間で育まれる情の深さを、和秋は知っている。
だから勝とうなんて最初から思わない。
最初から負けると判っている勝負に挑むほど、愚かになりたいとは思わなかった。
「……妬いてるのか」
「――ほんっまに厭なヤツやな。死んで」
だけどほんの少しだけ、この痛みを判ってはもらえないか。
ほんの少しだけ、この胸を痛みを知っていてはもらえないか。
祈るように思う。構わない。誰に負けていようが勝っていようが構わない。
「……和秋、」
そうやって名前を大切に呼んでくれれば。
そうやって手を差し出してくれたら。
「――なんや、あんた」
名前を呼ばれて、和秋は漸く顔を上げる。真っ直ぐに雄高の顔を見た瞬間、胸の蟠りがすとんと溶けて落ちた。
雄高はいつもと変わらない表情で、和秋を見つめている。ただその顔に、僅かな翳りが見えた。
「哀しいんやな」
唐突に思う。それは確信に近かった。――哀しいんやな。何かを。
「何がそんなに哀しいんや」
和秋は立ち上がると、雄高の傍らに膝を着いた。
「子供っていうのは、笑ったり泣いたりするのが自然だろう」
静かな眼差しに、言いようのない哀しさを垣間見た気がして、和秋はそっと――雄高の髪に触れた。指先は振り払われることなく、固い感触をした髪に辿り着く。
「――そうやな」
「だけどあんな風に泣かなくったっていいんだ」
独白のようだった。答えを求めない、ひどく静かな呟き。それでも和秋は、その言葉のひとつひとつに丁寧に相槌を返した。
「由成が泣くときはいつでもそうだ。いつも、そう思った」
「うん――」
いつか彼が自分にそうしたように。
悲しんでいる――よりも、悔やんでいる?
雄高の胸中に占める思いを計り切れず、曖昧なまま和秋は頷いた。
「昨日、由成が恭一の家を出た」
それだけのことだよ――雄高は、微かに苦く笑ってそう告げた。
随分説明を端折られてしまった。和秋は詳しい事情を察する術もなく、やはり曖昧に頷く。
「あれが最善だったんだ」
「やっぱりあんた悔やんでるんか、」
慰めるように髪を撫でる指先に、雄高はかもな、と短く笑う。
「あとは本人たちが決めたことだ。俺にはどうしようもない」
悔やんで、そして悲しんでいる。
なんて馬鹿な男だろうと和秋は思った。
――なんて馬鹿な男だ。
「そらそうや、恭一さんと楠田君が決めたことにあんたがいちいち口挟めるかい」
他人事に首を突っ込んで、それが哀しい結末に終わってしまったことを悲しんで悔やんでいる。どうして自分は他の方法を探せなかったのだろうと――悔やんでいる。
「思い上がるなや。あんたはただの第三者で、当事者やないやろ。あんたがどれだけ動いたかて、なるようにしかならへんねん」
なんて馬鹿で迷惑な。――そして。
「人の世話焼くんも、大概にしときや……」
なんて優しい人だろうと思う。
この人は。他人の痛みを受け入れてしまっている。あまりにも自然に、そうであることが当然であるように、他人の痛みを自分の痛みにしている。
そしてそれは、誰にも気付かれることがない痛みなのだろうと思った。
気付かれることがないように、痛みをそっと分割して、持って帰ってしまっている。そんなことには、きっと誰も気付かない。それは、気付かれることを彼自身が厭ったからだろう。
「そんなの、あんたのせいやないやんか」
ならば自分の痛みなど、大したことじゃないんじゃないか。
「なるようになる。あんたがそんなに心配せんでも、なるようになんねん。……ぜったい、へいきや」
和秋は――抱き締めた。自分よりも体格の良い男を抱き締めるのは多分生まれて始めてだ。
今は抱き締めることが自然だと思う。だから抱き締める。
少しでも痛みを分けてくれればいい。
自分の知らないその痛みは、きっと自分の下らない胸の痛みなんかより、ずっと辛いものだろうから。
雄高は一瞬だけ目を伏せると、再び視線を和秋に合わせて小さく笑んだ。
(――あんたは、子供は笑ってた方がええって言うたけど、)
「……和秋」
そうして小さく名前を呼ぶ。宝物のような響きで。自分を駄目にするあの声で。
「――人肌?」
雄高の腕が自分の身体を抱き返したのを確認して、和秋は笑う。できるだけ明るく。
(そんなん、大人もいっしょや)
「暖めてもらうには暑い季節だけどな」
「……つか俺風呂入ってへんけど。練習して帰ってきたから汗掻いてんで」
「良い」
「良いわけあるかー!」
早速和秋の服を脱がしに掛かった雄高の手を無理矢理剥いで、一言、
「待てッ、ウェイトッ」
と告げる。
「俺は犬か」
「まさか。犬に失礼やろ」
不服顔の雄高を取り残して、和秋は振り返らずに浴室に向かう。
(……あんたも、笑ってた方が、ずっとえ)
心の中でだけそっと呟いた言葉は、なぜかひどく胸を痛ませた。
慣れない、と思う。
いつまで経っても――どうしても慣れない。
余りにも緊張しすぎて、雄高を前にした風呂上りの和秋は膝を揃えて訴えた。
「えっちはしたくありません。」
「今更何を言ってるんだ」
「ぎゃー! ほんまに厭やってっ、勘弁……っ」
訴えも虚しく、腰に巻いたタオルはあっさりと奪われる。女でもないのだから、いちいち服を着て出るのも何だかな――そう考えたのが仇になった。女でなくとも羞恥心はあるのだ。
すぐに無防備な状態になってしまった和秋は唇を噛む。この際暑いのは我慢して厚着して出てくればよかった。
和秋の困惑などお構いなしに、雄高は慣れた手付きで膝の上に和秋の身体を抱えた。
「大人しく待ってやってただろうが。観念しろ」
ただ雄高の表情から、さっきまでの翳りが消えていることに和秋は安堵した。
「ま、待って、ほんまにあかんて」
露わにした下肢へと伸びる手に一瞬息を飲み、それでも往生際悪く和秋はもがく。
「毎回毎回同じ台詞を言って、そろそろ飽きないのかおまえは」
返す雄高の声は冷静である。情事に縺れ込む度に和秋が駄々を捏ねることに慣れ切っているのだ。
「何を待って何が「あかん」のかを三十秒以内に答えろ」
「さ、さんじゅうびょうて……ッう……」
ぐるぐると思考を巡らせている間にも、雄高の指先は和秋の一番弱い場所を握り込む。こうなってしまえば、もう和秋の負けは決定したも同然だった。
「や、……や」
雄高の膝の上でどれほど身を捩っても、中心を指先で愛撫されれば漏れるのは甘ったるい声だけだった。
「何が」
「――恥かしいっ」
「……今更」
雄高は小さく笑うと、根元から先端を指先で撫で上げた。爪で窪みを引っ掻かれれば、痛いくらいの快感に背が震えてはしたない蜜が濡れた音を立てる。
そのまま雄高は濡れた音を響かせながら、鈴口を指の腹でグリグリと押した。敏感すぎる箇所への刺激に思わず縋るように首に回した指が、雄高の皮膚に爪を立てる。
「ひ……ッ、ン……」
同時に臀部を広い掌で握り込まれ、容易く勃ち上がったそれは可哀想なくらいに張り詰めて震えている。
「何が恥かしいって?」
「……ンぁ……音……ッ」
最近雄高は、わざと和秋の羞恥を煽るように抱くようになった。それこそ優しかったのは最初だけで、それから後は釣った魚に何とやらだ。
「音を立ててるのは俺じゃない。……おまえだろ」
一層大きな水音が響いて、和秋は羞恥に身を竦ませた。――慣れない。どうしても、慣れない。
こんな風に男に主導権を握られて喘がされているこの状況に、まだ慣れることが出来ない和秋は、まるで気の小さい少女のように指一本動かすことが出来ず、ただかぶりを振った。
残酷なのは、意識は慣れないでいるのに身体だけは覚えていることだ。
雄高の指先が辿り着いた、奥に潜まった場所で感じる快感を、身体はもう覚えている。
「……痛……ッ……」
狭い入口を抉じ開けられれば、ひりつくような痛みが走る。
「む、り……入らへん……」
雄高の部屋にはローションだのクリームだの、用意周到なこの男が準備しているが、あいにく和秋の部屋にそんなこっぱずかしいものはない。自分が漏らした精液だけで濡れる指先は、到底受け入れられそうになかった。――勿論、雄高自身も。
「……ゆっくりしてやるから。力を抜いとけ」
もしかしたらこのまま止めてくれるかもしれない、なんて甘い考えはまたしても却下される。
雄高は握り込んだ和秋自身を引き掴むと、いっそ乱暴なほどの動作で上下に扱き始めた。
「ン…ッ…やぁ………やめ、…」
自分が零した先走りと雄高の指先が擦れ合う、ぐちゃりという淫猥な音に和秋はただ首を振った。恥かしくて堪らないのに、腰は雄高の掌に懐くように揺れている。まるでもっとと求めるように揺れる腰の動きを、止めることが出来ない。
「や……あ、ン……ッ」
このままでは一方的にイかされてしまう――まともに考えられたのはそこまでで、雄高の指先に翻弄されながら和秋は一層高い嬌声を上げると、留める術も知らずその掌に白濁した液体を吐き出した。
射精に一息吐く暇もなく、広げられた入り口にたった今自分が放った精液を塗り付けられる感触がした。
「……っ、ふ……」
その為に先に射精させられたのかと、和秋はぼんやりと思う。もう抵抗する気など残っておらず、自ら腰を僅かに浮かせて雄高に協力する。それでもまだ、羞恥心だけはしっかりと残っていた。
「……も、ええから」
「――まだだ」
雄高の指は容赦なくその場所を広げて、和秋自身が吐き出した精液を塗り込んでいる。暴かれた奥から淫らな音が漏れ、それが自分が放ったものだというだけで死にたくなるほど恥かしい。
わざとか偶然か、雄高の爪先が、弱い場所を軽く引っ掻いた。
それだけで和秋の前は再び熱を持って勃ち上がる。
あまりにも執拗にも慣らされて、ただ焦らされているだけなんじゃないかとさえ思う。
「……も、死ね、ぼけっ……」
「――可愛くないことばかり言ってるんじゃない」
「なっ、にが可愛くないやっ……ッう…ン」
怒鳴り返した一瞬の隙をついて、膨張した雄高の熱が滑り込む。ひゅ、と短く息を飲んだのは一瞬で、慣らされたそこは容易く雄高自身を飲み込んだ。圧迫感に苦しげに喉を反らす。仰け反った白い肌に噛み付くようにキスを落とされて、思わず鼻にかかった甘い吐息が漏れた。
――随分慣れてしまったと思う。
意識の上ではまだ抵抗は残るのに、それでもこの身体の深い場所に彼の熱を感じることに、慣れてしまった。
「……苦し、……」
それでも重力の力を借りて、熱は留まることなく深々と和秋を支配した。ほんの少し動いただけで、奥へと雄高自身が抉り込む。
もうこれ以上は無理だと首を振っても、雄高は和秋の腰を掴むと容赦なく下へと引き落とした。
「……ひッ、…や、……」
すっかり固さを取り戻した前は、とろりと先端を蕩かせながら雄高の腹に擦り寄る。腰を揺らせば前後からどうしようもない快感が沸き起こって、零れる甘い吐息を止める術を和秋はなくした。
首筋に雄高の熱い微かな吐息が触れる。
「――……ゆたか、さ……ゆたか……」
もっと奥まで、なんて恥ずかしいことは絶対に言えはしないから。
代わりに和秋は、何度も雄高の名を呼んだ。
――そういえば寝顔を見るのは、初めてだと思った。
そつのない彼はいつでも和秋より後に寝て、和秋よりも先に起きて、更には食事の準備をしていることが多い。
もそもそと身動ぎして、和秋は改めて静かな寝息を立てる男の横顔を見た。起きる気配はない。
よっぽど疲れていたのだろうかとふと思う。
きっと雄高のことだから、恭一辺りにでも付き合って夜通しで飲み明かしていたのだろう。
「――馬鹿やなあ」
あんたは付き合いが良すぎるんや――小さく呟いて、和秋はふっと笑う。仕方がない。
「あんたん中で、俺とあのひとたちと、どっちが大事なん」
すうすうと穏やかな寝顔で寝入っている雄高に問いを投げかけても、返る答えはない。元より答えなんて望んでいなかった。
恭一や由成に構っている間の雄高には携帯は繋がらないしメールは返って来ない。散々だ。
「――も、ええわ……」
多分それはこれからも少しも変わらないのだろう。雄高には大事なものがたくさんあって――その中には多分、自分の名前もある。それだけで充分だと思う。
「……あんたを、待っとったる」
雄高の元婚約者だという女性の気持ちが、今の和秋には少しだけ判る。
彼女はきっと待てなかったのだろう。
雄高はきっと、大切な友人たちに何かがあれば、すっ飛んでいく。例え恋人が傍にいようとも、泣いて引き止めようとも。
そんなこのひとを、好きになった。
これから何度不安に思うだろう。繋がらない携帯に、どれほどの不安を掻き立てられるだろう。
「……待ってる」
だけど。
もしも少しでもあなたが弱くなったとき、少しでも哀しくなったとき、
どうか傍にいさせて欲しい。
あなたを抱き締める腕が、どうか自分のものであるように――
ざわざわとざわめく胸の痛みにこらえきれず、和秋は少しだけ、笑った。
200310 アンケートお礼
【はつこいがこわれる話】(SV)
「もう治っていますよ。元々骨には異常はありませんでしたから。まだ痛むようなら、湿布を出しておきましょうか」
「先生、骨に異常がないっていうことは――」
「ええ大丈夫ですよ。また走れますから」
初老の医師の声がひどくやさしく聞こえた。
「――そうですか。良かったな、和秋」
自分よりも遥かに、付き添い恵史の方が安堵していることが、変におかしくなる。
本当に良かった、と喜びを露わにした恵史に肩を抱かれ、診察室を後にする和秋の背中に、医師が優しく声を掛けた。
「岸田君、お大事に」
「――…」
足が疼く。
返す言葉を見付けられず、和秋はただそっと頭を下げた。
――いい。
――もう、このままで、いい。
「恵先生、俺のタイム、ずっと落ちっぱなしやったの知ってた?」
静かに口を開いた和秋に、恵史は一瞬黙り込む。不自然な沈黙を誤魔化すように、恵史は自分で淹れた珈琲を口に運んだ。母親はいつも通り、まだ帰ってきていない。親の不在にも慣れたもので、恵史は和秋を送ったついでに珈琲を求めた。
「――おまえの調子があまり良くないことは、監督から聞いていたよ」
そう広くはないリビングで、恵史が返した言葉に和秋は眼を伏せる。多分、知られているのだろうとは思っていた。陸上部の監督と恵史は旧知の仲だと随分前に聞いている。
「タイムが伸びずにスランプに陥ることは誰にでもある。これを機にゆっくり休んで欲しいと言っていたよ」
「――ゆっくり?」
笑いたくなる。ゆっくり休め、そんなふうに今更気遣われたところでどうなるだろう。
「ずっと休んどけの間違いやないんか」
「和秋」
険しい声で恵史が顔を顰める。
「そんなことを言うもんじゃない。自分を心配してくれてる人に対して――」
「……心配?」
笑いたくなって、泣きたくなった。
ああ、この人は知らないのだと、どこか絶望に近い気持ちで思う。
ほんの少し前、開こうとした部室の扉の前で、和秋が聞いてしまったあの言葉を、この人は知らない――。
「……期待外れの部員でも、心配してもらえる?」
結果を残せたのは一年時の前半だけで、残りはタイムが下がっていく一方だった。スポーツ推薦で入学したのにこの有様だと自分を罵ってはいたが、それをそのまま他人の口から聞いてしまえば、伸し掛かる胸の重みがまるで違った。
耳から離れない。
期待外れだと自分を罵った、等しく部員全員の味方だと思っていたあの人の声が。
ドアノブを握ったまま、和秋を凍り付かせたあの声が。
甦る度に、消えてなくなりたい気持ちに駆られた。
――ごめんなさい、
「俺ぜんぜん役立たずやけど、なんもでけへんかったけど、それでも心配してもらえるかなあ……」
――あなたの期待に応えられなくて、ごめんなさい…
がた落ちしたタイムを上げようと躍起になればなるほど、タイムは落ちていく。その度に溜息を吐かれている気がした。
その度に、なんて孤独なスポーツなのだろうと痛感した。
誰一人として手を差し伸べてくれる人はおらず、それどころかタイムが落ち続ける自分の醜態を、どこかで誰かが喜んでいる。それはそのはずで、中学でレコードを大幅に更新した和秋は、入部当初から他の部員と扱いが違っていた。和秋が望む望まないに関わらず、監督や教師からは多大な期待が一身に浴びせられ、それに向けられる視線が、少しばかり苦いものであっても仕方がない。
この状態では走っていても誰からも受け入れて貰えず、しかし走ることを止めてしまえば、今かろうじて得ている愛情も、きっとこの掌からすり抜けて行くのだ。
「俺、走れへんようになったら、みんな見捨てるかなあ……」
自分はどうすればいいのだろう。
このまま走り続けても一筋の光も見えてこない。
しかし走らなければ、恵史から与えられている期待も愛情も失ってしまう。
「――こんなんやったら、……先生、からも、見捨てられ……」
走らなければ。
走って走って、認めてもらえるタイムを出せるまで、走り続けて――。
――足が疼く。
痛みに、気が付けば顔を歪めて泣き出していた。
「和秋……」
「せんせ…、俺どうしたらええの……ぁ、あし、ぜんぜん動かへんねん…っ」
ならば走らなければならない。絶対に喪えないものがあるのなら、どんなに辛くても走り続けよう、この人の期待を裏切らないように、誉めてもらえるように、ちゃんと前を向いて走っていよう。
「…走ろ、思うてグラウンド立ったら、足、痛なるねん……こんなんやったら、あかんて思うてる、けど、足が……っ」
しゃくりあげながら切れ切れに告げた言葉に、恵史が唖然としているのが気配で判る。
本当に呆れられてしまったかもしれない。このまま見捨てられてしまうかもしれない。
――なら、もう、
――走れなくても、いい。
「……ごめん」
恵史が唐突に落とした呟きに顔を上げると、彼は顔を歪め、痛ましげな表情で和秋の泣き顔を見つめていた。涙に濡れたこの顔は、きっと情けないことになっているに違いない。
「そんなに辛かったのに、気付いてあげられなくてごめんな」
恵史にこんな顔をさせるくらいなら、早く泣き止まなければいけない。
「和秋、ずっと頑張ってたんだな。――ごめんな、先生気付いてやれなくて。ごめんな、……よく頑張ったな」
泣き止まなければならないと思うのに、そんなふうに優しい声で謝られてしまえば、もう涙を止める術はなかった。
「――もう頑張らなくて良いんだよ」
もう少しで声を上げて泣き出してしまいそうになる。代わりに鼻を啜るとみっともない嗚咽が漏れた。一度口から滑り落ちた嗚咽は、次から次へと溢れて止まらない。
「せんせ…っ、俺、も……走りたない……っ」
「……うん」
良いんだよ、と優しい掌が、零れる涙を掬い上げた。
「……今おまえに足りないのは、少しの休息と睡眠と……それから、人に甘えること」
和秋の眠れない夜を教えるように、目の下にうっすらと浮かんだ隈を、恵史のやさしい指がなぞった。
「先生だって、おまえのお母さんだって、おまえをずっと心配してる。走れなくなったくらいで、どうしておまえを見捨てたりするんだよ」
声は沁み入るように、ボロボロになった心を柔らかく包み込んだ。もうこのままじゃ駄目になってしまうとまで思った傷を、そっと癒してくれる。
「――ほんま、に?」
衝動に似た強い感情が溢れ出しそうになる。
――この人のことが、好きだ。
「せんせ、俺のこと、見捨てへん……?」
いつからか、この人にだけ見ていてほしかった。この人が見守ってくれるなら、それだけで良いと思うようになった。
ひどく静かで、密やかな想い。恋にはならぬようにと留めてきたそれは、しかし一度意識してしまえば簡単に胸に棲みついてしまう。
「……俺、走れへんようになっても、見捨てへん?」
子供をあやすように抱き締めたこの腕が、ずっとずっと欲しかったのかもしれない。
確かめるようにそろそろと口にした言葉に、恵史は強く頷いた。
「……ぜったいに?」
「絶対に」
恵史は少しだけ笑ってから、ふと表情を引き締めると改めて和秋の眼を真っ直ぐに見つめた。
「おまえをずっと守っていこうって決めたんだ。だから、」
もしかしたら走れるかもしれない、この人が背中を押してくれるなら、自分は何度だって立ち上がれるかもしれない。
止まりかけた涙は、続いた恵史の言葉に凍り付いた。
「……和秋、俺は、おまえの父親になってもいいかな」
一瞬耳を疑う。それは――
「……恵先生、何言うてんの?」
「本当は――もう少し先に言おうと思っていたんだ。……だけど、今日のおまえの姿を見ていたら、少しでも早く傍にいてやらなきゃならない気がして……俺、弓子さんとおまえの家族になっても良いかな」
「……先生、母さんと……?」
それは一体どういう意味だと、確認せずとも、答えはもう決まっている。
「先月弓子さんにプロポーズして、あとは和秋さえ賛成してくれれば……結婚しようと思っている」
叫び出したい衝動に、和秋は唇を噛み締めた。
なら、あなたのやさしさは、最初から自分に向けられたものではなかったのかもしれない。そんな恐ろしい仮定を叫ぶことなど出来なかった。
「……おまえの家族になりたいんだ」
やさしい言葉は、しかし胸を深く抉った。
さっき癒されたばかりの傷を、再び痛め付けられている。
どうして、と。
そんな言葉を、この優しい人に投げ付けることがどうして出来ただろう。
「――…ええよ。俺恵先生のこと好きやし」
涙が止まらない。
後から後から零れるこの涙は、いったい何だろう。
何を嘆く涙なのか、もう自分でも判らなかった。
「世話ばっかかかるひとやけど、よろしくな」
笑おう。
「和秋、良いのか?」
ありがとう。やさしくしてくれて。
あなたが一番に愛しているのは、自分ではなかったけれど――。
――好きです。
――あなたのことを、ずっと、
告げられない言葉を胸に仕舞いながら、和秋は泣いたまま笑った。
「……せんせい」
泣き顔で、――それでも、上手に笑った。
「おめでとう」
――もう、走れなくても、
誰にも愛されなくても、いい。
04年1月焼却炉入り