降り出した雨は細く、確実に制服を濡らし続けた。「ツいてねえ、」清田が隣で独りごちるのを他人事の思いで聞く。暫らくは独り言のように「濡れる、」だの「風邪を引く、」だのと文句を言っていた清田が、強まっていく雨音に散々喚くので、仕方なく奥村は口を開いた。
「雨だった」
「は? 何が?」
「天気予報」
午前中の降水確率はニ十パーセント、午後からは七十パーセントと、記憶が正しければ朝のニュースで言っていたはずだ。
「んなもん見てねーよ、そんな暇あるか。忙しいんだよ朝は」
卒業を一週間後に控え、来月からは晴れて高校生になるというのに、清田はまだ落ち着きがない。そう言えば今朝も、ホームルームにギリギリ間に合わない時間に教室へ滑り込んだことを思い出す。
「自業自得だ」
正しく言い切った奥村に、清田は唇を尖らせる。あぁ冷たい、と当てこするように言われても、雨雲を払う術など自分は持たない。ポツポツと降り注ぐ雨はまだ細く、しかし時間が経てば大雨になるのは容易く予想できた。今のうちに早足で歩いて帰る以外、雨を避ける方法はないだろう。
「この時期濡れて帰るってのはちょっと辛いんだけど。寒ィし」
「走れ」
「俺かよ」
白い息を吐きながら清田が笑う。文句を言うわりには、雨を避けて走る気配を一向に見せなかった。代わりに雨宿りをしようとも言い出さない彼は、もしかしたら知っているのかもしれない。
「おまえなんかと相合傘をする趣味はない」
「けどこのままじゃ濡れるだろ。濡れたら風邪引くだろ。風邪引いたら困るだろ。下手に今風邪なんか引いたら卒業式出れなくなるかもしれねえから。俺が卒業式いなかったら嫌だろお前」
「静かでいい」
奥村が出掛ける際母親に呼び止められ、持たされた折り畳み傘の存在を、予め知っていたのかもしれない。
「俺は嫌だからな、お前と揃って卒業できないの」
あどけなく、率直な清田の声を笑って馬鹿にすることも出来ず、奥村はわざとらしい溜め息を聞かせると、鞄の中からコンパクトに纏まった傘を取り出した。雨はさっきよりは強まっている。それでもまだ傘がなくとも耐えることのできる範囲だろう。せめてこの雨が、細く優しいものである限り、傘を広げるつもりはなかった。奥村が傘を広げるよりも早く、清田の手がそれを奪う。深いグリーンの布に一瞬視界を奪われ、当然のように清田の手に収まったそれは、やがて二人の頭上に落ちる雫を遮った。奥村は、こうなることを知っていた。知っていたから取り出したくなかった。
清田の手に握られた傘は、奥村のほうへ傾いている。
「濡れる」
「文句言うなよ。これ以上おまえの方にやったら俺がびしょ濡れになるだろー」
「判ってる。おまえが濡れる」
今でさえ充分に清田の肩は濡れている。傘が自分のほうへ大きく傾いているせいだ。
「だっておまえの傘だからな」
笑った清田の横顔を、奥村は不思議な気持ちで見つめた。時折、彼は勘違いしているのではないかと思う。自分を動物か、そうでなければ歳の離れた弟とでも勘違いしているのではないか。間違っても庇護されるべき対象ではないのに、清田は時折、自分のことを優しく扱った。何故かそのことを嘆きたくなる。
「だから走れ」
「やだよ。無駄な体力使いたくねえんだよ」
傘の大きさは充分ではない。清田に比べれば少量とは言え、空から落ちる雫は容赦なく奥村の肩も濡らした。恥ずかしげもなく男同士の相合傘をやってのける清田の神経を疑いたければ、それを無理に止めようとも思わない自分を疑いたくなる。
何かがおかしいと思えば、雫の冷たさがいっそう増す気さえした。
「雨、強くなりそうだな。家に帰るまでこれくらいで済めばいいけど」
雨はまだ強くなるだろう。しかし奥村は口を開かず、黙って頷いた。
降り注ぐ雨の針に刺されているのは肩ではなく、身体ではなく、もっと奥のほうに潜む柔らかい部分だと、またその痛みはこれからも尚続いてゆくのだと知って、奥村はほんの僅かに俯いた。「どうした、」訝しげな清田の声には、雨が目に入って痛いからと言い訳を選ぶ。嘘じゃない、本当じゃない。――嘘じゃない、痛い。けれどまだ、家には着かなくても、いい。
友情でも恋でも、痛みを嘆く理由は未だ見当たらない。