電話が繋がらない。
かと言って重要な用事があったわけでもないから、二回目に掛けた電話が延々と電子音を響かせていても、深く気にすることはなかった。
三回目に掛けた電話も、矢張り相手が出る気配もなく電話は繋がらない。
四回目に電話を掛けたときには、電源を切っておられるか電波の――そんな胸糞の悪い言葉が鼓膜を打った。
――さて。
和秋は考える。あの人の電話が繋がらないなんて、そう珍しくはないことだ。
彼はある特定の条件下にいるときだけ、和秋からの電話にも出ないことは、ここニヵ月ほどの付き合いで学習している。
どっちが上か大切にされているのか、それが優先順位だなんてことは考えないことにしている。そんなことを考えるのはただ不愉快なだけだ。
――由成君は合宿所にいてはるし。そしたらお兄さんの方かな……。
別に、別に、大した用事があったわけじゃないけれど――。
ただ、ほんの少しだけ不愉快なことに変わりはなかった。
「え、楠田君帰ってもうたん?」
和秋が所属しているのはソフトテニス部で、この合宿所には他にも幾つかのクラブが同時に合宿している。学校が所有している、山奥に建てられた合宿所だ。そんな辺鄙な場所にあるせいで、もちろん人の足では帰ることなど出来ようもない。和秋たちは明日迎えに来る送迎バスに乗って帰宅する予定だった。
そのバスを待たず、同じくソフトテニス部の後輩である楠田由成が帰ってしまったという話を聞いたのは、朝食を終えてすぐに開始した練習の最中だった。
「工藤が言うには、兄貴が夏風邪引いたとか言ってたな。俺知らなかったんだけど、あいつって兄貴と二人暮らしらしいぜ」
まだ寝惚け顔の情けない清田は、あくびを噛み殺しながら柔軟体操に励んでいる。部長がこの有様なら、部員全体も何となく覇気がなくとも仕方ない。
「そら大変やん。二人暮らしやったら楠田君以外、面倒見れるひともおらへんもんなあ――」
――ほんまは知ってるけど。
声には出さず、和秋は独りごちる。
そう、自分は知っている。楠田由成がその兄と二人暮らしであること。もしもその兄が本当に急病であれば、世話をする人物が由成以外にも確実に一人はいることを――知っている。
「ン、だから工藤が伝言に来て、あいつはすぐに帰ったらしいぜ。そういう事情なら無理に引き止めたって気の毒だし、合宿に参加してもらっただけでも有り難かったしな」
「俺に有り難いはないんかい、俺に」
「ははは。楽しいだろ合宿」
誤魔化すように爽やかに笑った清田を一睨みして、和秋は内心溜息を吐く。――どうやら予想は中っていたようだ。
当初、この合宿に参加する予定はなかった和秋を、無理矢理引っ張り込んだのは他でもなく清田だ。初めは渋っていたものの、説得に負ける形で結局は参加することになってしまった。合宿期間は二泊三日だ。その間バイトにも行けないのは痛かった。故に参加を見送るつもりだったのに、腹が立ったのだ。
ほんの少しの躊躇いもなく、行って来い、たまには学生らしく部活動に励め――そんな憎たらしい言葉で和秋を見送ったあの男に。
和秋の予定と彼の予定が噛み合わず、一週間も会わずに過ごし、漸くのんびりと話すことが出来た電話口で、あの男はそう言ったのだ。
――全く腹が立つ。
例えば合宿に参加しているこの三日間、もしも合宿には行かず和秋がただバイトを休んでいれば――或いは彼の予定が空けば――一週間振りに会えるなんてことは、考えもしなかったのだろう。
――自分だって絶対に、少しもそんなことは思いもしなかったが。
行ったるわ、ぼけっ――という子供染みた文句を叩き付けて、和秋は電話を切った。自分にとっては一週間も顔を見ていない事実が、彼にとってはたったの一週間に計算されるのだと、和秋はそのとき痛感させられたのだ。
寂しいだとか会いたいだとか。
そんなことを素直に口に出来るほど素直であれば、ここまで悶々とした思いは抱かなかった。
「――けど帰るって、どうやって帰ったん。走って帰るんは無理やろ、幾ら楠田君でも」
半ば予想が付いている疑問を、和秋は出来る限り普通に言った。
清田の答えは、矢張り予想通りで――
「兄貴の友達がここまで迎えに来てくれるらしいぜ」
和秋は頭を抱えたくなった。
「どうした矢野、顔色悪ィぞ」
「いや……えらい親切なお友達やね……」
頭を抱える代わりに、そう言うのがやっとだった。
えらく親切なお友達は――間違いなく、あの人だ。
楠田由成。
彼には多少面識がある。何しろ部活が同じなのである。お互い幽霊部員で顔を合わせる回数こそ少なかったが、ソフトテニス経験者が多い部員内で、由成と自分は全くの素人ということで練習中に組まされることは多々あったし、会話は多く交わしている方だと思う。
親しみ易い子だと言うのが和秋の第一印象だった。清田にしてみれば、悪いヤツじゃないんだが近寄り難いというのが彼の感想らしく、それは他の部員も同様らしかった。しかし和秋にしてみれば、確かに口数こそ少ないものの話し掛ければ反応は返るし、その反応とて随分しっかりしたもので、会話に困ることもない。気に入りの後輩だった。――あの人が世話を焼きたがるのも、わかると。
そしてその兄の、楠田恭一。
こちらには全く面識がない。ないにも関わらず、名前を覚えてしまっている。それこそ厭になるくらい覚えさせられてしまっているのだ。
あの人の口からその名前が上がることは殆どない。大概この名前を和秋に聞かせるのは、彼の担当編集者であるらしい神城という男だ。
――また楠田先生のところに行ってたんですか。
呆れた口振りで神城が諌めるのを、何度か聞いた。神城が言うには、暇さえあれば彼は恭一宅に入り浸っているらしいのだ。
そしてほんのニ、三度、楠田恭一と彼の電話での会話を傍で聞いていたことがある。
恭一――と、彼がそう呼んでいた。だから覚えてしまっている。
そしてあの男の電話が繋がらないとき、その原因は、ほぼ確実にこの二人のどちらかか――もしくは両方であることを、和秋は知っているのだ。
「おまえも大概上達しねえな」
「うっさいわボケッ」
そうやって清田と子供の喧嘩を延長させた遣り取りをしていても、ぼんやりと思考は別のところへ移っている。
間違いなく彼は今、楠田由成か楠田恭一かの傍にいるのだろう。そういうひとだ。
そんなことを考えていると、打ち返したボールが見事な曲線を描いて落ちた。――向かいのコートにいる清田から、遥かに離れた右の方向へ。
「どんどん下手になっていってねえか……?」
今和秋に課されている課題は、ラリー十本である。ラリーは続かなければ当然意味はない。しかし清田の決して遅くはない脚を持っても、和秋がボールを打ち返したへんてこな場所には到底追い付けなかった。
「んなわけあるかー!」
「勘弁してくれよ。来年一年入って来なかったらおまえに出てもらわなきゃなんねえんだから、団体戦。そんなんだと組まされる方が可哀想だろ。知ってるか? ソフトテニスってダブルスでやるんだぞ」
「も、頼むから黙っといてくれ……」
さすがにそこまで言われれば和秋とてへこむ。
「俺かてがんばってんねん……せやけど上達せえへんのや、しゃあないやんかっ」
「うわっ、泣くなって」
「泣くかボケー!」
へこんだって、こんなことでいちいち泣いていては先に進めない。自分がノーコンなのは承知のことで、どれだけ練習したってほんの少しも改善されないことも知っている。
「大丈夫だって、ノーコンは練習で治る。おまえの足には期待してっから」
「――慰められてるんか微妙や……」
だから泣いてなどいない。
繋がらない電話。
会わない一週間。
あの人の傍にいるのは自分じゃない誰か。
そんな小さなことに、いちいち泣いてなんかいられない。
合宿からアパートに帰り着いたのは、夕方に近い午後だった。丸々三日バイト休みを取っていて正解だったとしみじみ思う。体力には自信があったものの、久し振りに身体を動かしたのと散々清田に扱かれたせいで疲労困憊していた。
カン、カン、と足元で鳴る音を聞きながら鉄製の階段を登る。関節痛に時折顔を顰めながら階段を登り切ると、部屋の扉の前に、見慣れた人物が佇んでいた。
瞬時に、どうしようかと迷う。引き返したい衝動にも狩られた。
結局あれから連絡は取れないままで、会わない一週間に加え合宿中丸々三日間、和秋は放っておかれていたのだ。
怒っている。自分は確かに怒っているのに――。
真っ直ぐに彼へと向かう足は、疲れているせいだと思うことにした。わざわざ引き返してどこかに逃亡するほど、元気が余っていないのだ。
「遅かったな」
雄高は待ち侘びたと言った風に、ほんの少しだけ口元を緩めて微笑った。
「この時間に帰って来るんは予定通りやけどな」
無性に、ちくしょうと思う。そんな風に笑ったって、許してなんかやるもんか。
雄高の横を無表情に通り抜けて、ウィンドブレーカーのポケットから取り出した鍵で扉を開ける。どうぞと促してやることなんてしない。どうせこの男は躊躇いもせずに部屋に上がってくるのだから。
「そうか」
雄高は短く頷いた後、ぽつりと呟くように小さな声で言った。
「長かったな」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ和秋は言葉を失った。
「――何が長かった、や。たかが三日やろ」
少しの沈黙の後、努めてぶっきらぼうな声で言い放つ。
「その前も、一週間会ってない」
「あんたが行け言うたんやろ、合宿」
和秋に続いて、雄高は部屋に上がり込むと許可なく小さなソファに腰を降ろした。その隣に腰を降ろすことが何となく厭で、和秋はまず持っていたショルダーバッグを降ろすと中から洗濯物を取り出した。
「楽しかったか」
「楽しかったで。そらもう。どっかの誰かさんの携帯は繋がらへんしメールは返って来ィへんし散々やったけど、楽しかったで」
言ってしまってから、唇を噛む。どうして自分はこうも感情を抑えるという手段を知らないのだろう。事の他、この男の前ではその傾向が強くなっているように思う。これでは――妬んでいることがバレバレだ。
楠田由成と、その兄に。
「電話は余り好きじゃない」
雄高の顔を見ずに、黙々と持って帰った荷物の整理をしている和秋に、雄高の呟く声が聞こえた。
「メールもな。――会いたくなる」
和秋は思わず手を止めた。まだまだ片付けなければならない荷物はたくさんあるのだ。洗濯物を洗わなければならないし、今着ているウィンドブレーカーだってそうだ。早く着替えて洗濯物に出さないと。――なのに、手は動くことを忘れている。
「――楠田君、どうしたん?」
――降参だ。心の中で白旗を掲げる。
何ひとつ、雄高には勝てない。
どれだけ会いたくても寂しくても、ほったらかしにされて憤っていても。
この人は短い言葉だけで自分を打ち負かしてしまうのだから、最初から怒るだけ無駄なのだ。
「合宿、急に帰ってもうて、あんたも携帯繋がらへんし――何かあったんやろ」
ならばこれくらいは許されるだろうと、和秋は俯いたまま口を開いた。本当は、本人のいない場所でその人の話をすることは好まない。しかし何も知らないままでは、嫉妬しそうだった。――雄高の優しさの殆どを持っていってしまう、あの人たちに。
「あんたに連絡取れへんときは、恭一さんか楠田君とこに行ってるときや。――何かあったん?」
雄高は口を開かない。
ただ、ほんの少しだけ眉を寄せて、和秋を見つめていた。
「……言いたないんやったら、訊かへんけど」
付き合いの長さで言えば、最初っから負けている。自分が雄高を知ってからほんの二ヶ月、その何十倍もの時間を、あの人たちは共に過ごしているのだ。自分と恵史のようなものだろう。長い時間の間で育まれる情の深さを、和秋は知っている。
だから勝とうなんて最初から思わない。
最初から負けると判っている勝負に挑むほど、愚かになりたいとは思わなかった。
「……妬いてるのか」
「――ほんっまに厭なヤツやな。死んで」
だけどほんの少しだけ、この痛みを判ってはもらえないか。
ほんの少しだけ、この胸を痛みを知っていてはもらえないか。
祈るように思う。構わない。誰に負けていようが勝っていようが構わない。
「……和秋、」
そうやって名前を大切に呼んでくれれば。
そうやって手を差し出してくれたら。
「――なんや、あんた」
名前を呼ばれて、和秋は漸く顔を上げる。真っ直ぐに雄高の顔を見た瞬間、胸の蟠りがすとんと溶けて落ちた。
雄高はいつもと変わらない表情で、和秋を見つめている。ただその顔に、僅かな翳りが見えた。
「哀しいんやな」
唐突に思う。それは確信に近かった。――哀しいんやな。何かを。
「何がそんなに哀しいんや」
和秋は立ち上がると、雄高の傍らに膝を着いた。
「子供っていうのは、笑ったり泣いたりするのが自然だろう」
静かな眼差しに、言いようのない哀しさを垣間見た気がして、和秋はそっと――雄高の髪に触れた。指先は振り払われることなく、固い感触をした髪に辿り着く。
「――そうやな」
「だけどあんな風に泣かなくったっていいんだ」
独白のようだった。答えを求めない、ひどく静かな呟き。それでも和秋は、その言葉のひとつひとつに丁寧に相槌を返した。
「由成が泣くときはいつでもそうだ。いつも、そう思った」
「うん――」
いつか彼が自分にそうしたように。
悲しんでいる――よりも、悔やんでいる?
雄高の胸中に占める思いを計り切れず、曖昧なまま和秋は頷いた。
「昨日、由成が恭一の家を出た」
それだけのことだよ――雄高は、微かに苦く笑ってそう告げた。
随分説明を端折られてしまった。和秋は詳しい事情を察する術もなく、やはり曖昧に頷く。
「あれが最善だったんだ」
「やっぱりあんた悔やんでるんか、」
慰めるように髪を撫でる指先に、雄高はかもな、と短く笑う。
「あとは本人たちが決めたことだ。俺にはどうしようもない」
悔やんで、そして悲しんでいる。
なんて馬鹿な男だろうと和秋は思った。
――なんて馬鹿な男だ。
「そらそうや、恭一さんと楠田君が決めたことにあんたがいちいち口挟めるかい」
他人事に首を突っ込んで、それが哀しい結末に終わってしまったことを悲しんで悔やんでいる。どうして自分は他の方法を探せなかったのだろうと――悔やんでいる。
「思い上がるなや。あんたはただの第三者で、当事者やないやろ。あんたがどれだけ動いたかて、なるようにしかならへんねん」
なんて馬鹿で迷惑な。――そして。
「人の世話焼くんも、大概にしときや……」
なんて優しい人だろうと思う。
この人は。他人の痛みを受け入れてしまっている。あまりにも自然に、そうであることが当然であるように、他人の痛みを自分の痛みにしている。
そしてそれは、誰にも気付かれることがない痛みなのだろうと思った。
気付かれることがないように、痛みをそっと分割して、持って帰ってしまっている。そんなことには、きっと誰も気付かない。それは、気付かれることを彼自身が厭ったからだろう。
「そんなの、あんたのせいやないやんか」
ならば自分の痛みなど、大したことじゃないんじゃないか。
「なるようになる。あんたがそんなに心配せんでも、なるようになんねん。……ぜったい、へいきや」
和秋は――抱き締めた。自分よりも体格の良い男を抱き締めるのは多分生まれて始めてだ。
今は抱き締めることが自然だと思う。だから抱き締める。
少しでも痛みを分けてくれればいい。
自分の知らないその痛みは、きっと自分の下らない胸の痛みなんかより、ずっと辛いものだろうから。
雄高は一瞬だけ目を伏せると、再び視線を和秋に合わせて小さく笑んだ。
(――あんたは、子供は笑ってた方がええって言うたけど、)
「……和秋」
そうして小さく名前を呼ぶ。宝物のような響きで。自分を駄目にするあの声で。
「――人肌?」
雄高の腕が自分の身体を抱き返したのを確認して、和秋は笑う。できるだけ明るく。
(そんなん、大人もいっしょや)
「暖めてもらうには暑い季節だけどな」
「……つか俺風呂入ってへんけど。練習して帰ってきたから汗掻いてんで」
「良い」
「良いわけあるかー!」
早速和秋の服を脱がしに掛かった雄高の手を無理矢理剥いで、一言、
「待てッ、ウェイトッ」
と告げる。
「俺は犬か」
「まさか。犬に失礼やろ」
不服顔の雄高を取り残して、和秋は振り返らずに浴室に向かう。
(……あんたも、笑ってた方が、ずっとえ)
心の中でだけそっと呟いた言葉は、なぜかひどく胸を痛ませた。
慣れない、と思う。
いつまで経っても――どうしても慣れない。
余りにも緊張しすぎて、雄高を前にした風呂上りの和秋は膝を揃えて訴えた。
「えっちはしたくありません。」
「今更何を言ってるんだ」
「ぎゃー! ほんまに厭やってっ、勘弁……っ」
訴えも虚しく、腰に巻いたタオルはあっさりと奪われる。女でもないのだから、いちいち服を着て出るのも何だかな――そう考えたのが仇になった。女でなくとも羞恥心はあるのだ。
すぐに無防備な状態になってしまった和秋は唇を噛む。この際暑いのは我慢して厚着して出てくればよかった。
和秋の困惑などお構いなしに、雄高は慣れた手付きで膝の上に和秋の身体を抱えた。
「大人しく待ってやってただろうが。観念しろ」
ただ雄高の表情から、さっきまでの翳りが消えていることに和秋は安堵した。
「ま、待って、ほんまにあかんて」
露わにした下肢へと伸びる手に一瞬息を飲み、それでも往生際悪く和秋はもがく。
「毎回毎回同じ台詞を言って、そろそろ飽きないのかおまえは」
返す雄高の声は冷静である。情事に縺れ込む度に和秋が駄々を捏ねることに慣れ切っているのだ。
「何を待って何が「あかん」のかを三十秒以内に答えろ」
「さ、さんじゅうびょうて……ッう……」
ぐるぐると思考を巡らせている間にも、雄高の指先は和秋の一番弱い場所を握り込む。こうなってしまえば、もう和秋の負けは決定したも同然だった。
「や、……や」
雄高の膝の上でどれほど身を捩っても、中心を指先で愛撫されれば漏れるのは甘ったるい声だけだった。
「何が」
「――恥かしいっ」
「……今更」
雄高は小さく笑うと、根元から先端を指先で撫で上げた。爪で窪みを引っ掻かれれば、痛いくらいの快感に背が震えてはしたない蜜が濡れた音を立てる。
そのまま雄高は濡れた音を響かせながら、鈴口を指の腹でグリグリと押した。敏感すぎる箇所への刺激に思わず縋るように首に回した指が、雄高の皮膚に爪を立てる。
「ひ……ッ、ン……」
同時に臀部を広い掌で握り込まれ、容易く勃ち上がったそれは可哀想なくらいに張り詰めて震えている。
「何が恥かしいって?」
「……ンぁ……音……ッ」
最近雄高は、わざと和秋の羞恥を煽るように抱くようになった。それこそ優しかったのは最初だけで、それから後は釣った魚に何とやらだ。
「音を立ててるのは俺じゃない。……おまえだろ」
一層大きな水音が響いて、和秋は羞恥に身を竦ませた。――慣れない。どうしても、慣れない。
こんな風に男に主導権を握られて喘がされているこの状況に、まだ慣れることが出来ない和秋は、まるで気の小さい少女のように指一本動かすことが出来ず、ただかぶりを振った。
残酷なのは、意識は慣れないでいるのに身体だけは覚えていることだ。
雄高の指先が辿り着いた、奥に潜まった場所で感じる快感を、身体はもう覚えている。
「……痛……ッ……」
狭い入口を抉じ開けられれば、ひりつくような痛みが走る。
「む、り……入らへん……」
雄高の部屋にはローションだのクリームだの、用意周到なこの男が準備しているが、あいにく和秋の部屋にそんなこっぱずかしいものはない。自分が漏らした精液だけで濡れる指先は、到底受け入れられそうになかった。――勿論、雄高自身も。
「……ゆっくりしてやるから。力を抜いとけ」
もしかしたらこのまま止めてくれるかもしれない、なんて甘い考えはまたしても却下される。
雄高は握り込んだ和秋自身を引き掴むと、いっそ乱暴なほどの動作で上下に扱き始めた。
「ン…ッ…やぁ………やめ、…」
自分が零した先走りと雄高の指先が擦れ合う、ぐちゃりという淫猥な音に和秋はただ首を振った。恥かしくて堪らないのに、腰は雄高の掌に懐くように揺れている。まるでもっとと求めるように揺れる腰の動きを、止めることが出来ない。
「や……あ、ン……ッ」
このままでは一方的にイかされてしまう――まともに考えられたのはそこまでで、雄高の指先に翻弄されながら和秋は一層高い嬌声を上げると、留める術も知らずその掌に白濁した液体を吐き出した。
射精に一息吐く暇もなく、広げられた入り口にたった今自分が放った精液を塗り付けられる感触がした。
「……っ、ふ……」
その為に先に射精させられたのかと、和秋はぼんやりと思う。もう抵抗する気など残っておらず、自ら腰を僅かに浮かせて雄高に協力する。それでもまだ、羞恥心だけはしっかりと残っていた。
「……も、ええから」
「――まだだ」
雄高の指は容赦なくその場所を広げて、和秋自身が吐き出した精液を塗り込んでいる。暴かれた奥から淫らな音が漏れ、それが自分が放ったものだというだけで死にたくなるほど恥かしい。
わざとか偶然か、雄高の爪先が、弱い場所を軽く引っ掻いた。
それだけで和秋の前は再び熱を持って勃ち上がる。
あまりにも執拗にも慣らされて、ただ焦らされているだけなんじゃないかとさえ思う。
「……も、死ね、ぼけっ……」
「――可愛くないことばかり言ってるんじゃない」
「なっ、にが可愛くないやっ……ッう…ン」
怒鳴り返した一瞬の隙をついて、膨張した雄高の熱が滑り込む。ひゅ、と短く息を飲んだのは一瞬で、慣らされたそこは容易く雄高自身を飲み込んだ。圧迫感に苦しげに喉を反らす。仰け反った白い肌に噛み付くようにキスを落とされて、思わず鼻にかかった甘い吐息が漏れた。
――随分慣れてしまったと思う。
意識の上ではまだ抵抗は残るのに、それでもこの身体の深い場所に彼の熱を感じることに、慣れてしまった。
「……苦し、……」
それでも重力の力を借りて、熱は留まることなく深々と和秋を支配した。ほんの少し動いただけで、奥へと雄高自身が抉り込む。
もうこれ以上は無理だと首を振っても、雄高は和秋の腰を掴むと容赦なく下へと引き落とした。
「……ひッ、…や、……」
すっかり固さを取り戻した前は、とろりと先端を蕩かせながら雄高の腹に擦り寄る。腰を揺らせば前後からどうしようもない快感が沸き起こって、零れる甘い吐息を止める術を和秋はなくした。
首筋に雄高の熱い微かな吐息が触れる。
「――……ゆたか、さ……ゆたか……」
もっと奥まで、なんて恥ずかしいことは絶対に言えはしないから。
代わりに和秋は、何度も雄高の名を呼んだ。
――そういえば寝顔を見るのは、初めてだと思った。
そつのない彼はいつでも和秋より後に寝て、和秋よりも先に起きて、更には食事の準備をしていることが多い。
もそもそと身動ぎして、和秋は改めて静かな寝息を立てる男の横顔を見た。起きる気配はない。
よっぽど疲れていたのだろうかとふと思う。
きっと雄高のことだから、恭一辺りにでも付き合って夜通しで飲み明かしていたのだろう。
「――馬鹿やなあ」
あんたは付き合いが良すぎるんや――小さく呟いて、和秋はふっと笑う。仕方がない。
「あんたん中で、俺とあのひとたちと、どっちが大事なん」
すうすうと穏やかな寝顔で寝入っている雄高に問いを投げかけても、返る答えはない。元より答えなんて望んでいなかった。
恭一や由成に構っている間の雄高には携帯は繋がらないしメールは返って来ない。散々だ。
「――も、ええわ……」
多分それはこれからも少しも変わらないのだろう。雄高には大事なものがたくさんあって――その中には多分、自分の名前もある。それだけで充分だと思う。
「……あんたを、待っとったる」
雄高の元婚約者だという女性の気持ちが、今の和秋には少しだけ判る。
彼女はきっと待てなかったのだろう。
雄高はきっと、大切な友人たちに何かがあれば、すっ飛んでいく。例え恋人が傍にいようとも、泣いて引き止めようとも。
そんなこのひとを、好きになった。
これから何度不安に思うだろう。繋がらない携帯に、どれほどの不安を掻き立てられるだろう。
「……待ってる」
だけど。
もしも少しでもあなたが弱くなったとき、少しでも哀しくなったとき、
どうか傍にいさせて欲しい。
あなたを抱き締める腕が、どうか自分のものであるように――
ざわざわとざわめく胸の痛みにこらえきれず、和秋は少しだけ、笑った。
200310 アンケートお礼