物が壊れていく音はどうしてこんなにも空虚なのだろうと思う。今まさに、目の前で机の端から落ちて床に叩き付けられたグラスが、騒々しいくらいの音を上げて弾けるように割れた。決して静謐ではない音なのに、どこか空っぽだ。例えばそれを言葉で表すとすればとても稚拙で、子どもが猫を構うとき、にゃあと鳴き声を真似する、それくらいの拙い、詰まらない表現にしかならない。
引き止めようとした手は間に合わなかった。グラスは無残にもひび割れ、欠片はフローリングのあちこちに飛び散っている。踏ん付けたら痛そうだ。まるで他人事に思いながら、恭一は気だるく前髪を掻き上げた。早く片付けなければと思うのに、一向に気が向かない。
グラスの中身が空だったのは幸いだろう。こんなにもしんどいのに雑巾掛けまでしてやる気力はない。身体が重く感じるのは体調不良のせいではなく、単に二日酔いであることは承知で、頭痛が一向に引かないくせにまた酒を煽っていた自分はどうしようもなく愚かだ。酒もすぎれば毒になる、心地よいテンションを与えてくれるはずのアルコールも頭痛を紛らわせてはくれなかった。
あの無駄に育ってしまった少年がここにいれば、少しの苦笑とやさしい叱咤を口にして、すぐさま床を片付けにやってくるのだろう。
――恭さん、歩かないで、危ないから。
そんなふうに忠告しながら身を屈めて砕け散ったグラスを拾い上げる姿さえ瞼の裏に浮かんでくる。
自分が片付けに手を貸そうとすれば、要らないと首を振るのだろう。――あんた掃除は下手なんだから、邪魔しないでくれ。怪我をする。そうやさしく皮肉りながら、綺麗に床を片してくれるに違いない。
不便だと、散らばって照明を反射するガラスの欠片を眺めながら恭一は思う。あのデカいのは、いたらいたで家が狭く感じるし、相変わらず見下ろされるのは好きではなかったから、邪魔で邪魔で仕方がなかった。しかし、いないならいないで不便だ。片付ける人間がいない。自分が汚した床を片付けてくれる由成がいない。
大きく育ってしまったあの子の指は大きくて、そのくせ器用に動く。重ね合わせれば自分の掌との違いは明らかだった。幼い頃は少女のようだった掌も、今は無骨でしかなく、強く触れられると痛みを感じた。けれどそれが嫌いではなかった。
そんなことを思い出して、思わず自分の掌をじっと凝視する。
椅子の背凭れに深く背を預けた格好で、上向きに翳して見た掌は、由成のものに比べれば小さいのだろう。そういえば指まで綺麗な子どもだった。外に出て遊ぶことも知らず、ひたすら家の中で息衝いていれば傷一つなくとも不思議ではないのかもしれない。もしくは子どもの指というものは無条件で綺麗なものなのだろうか。
「――俺がガキのころは汚かったけどな」
それでも自分が幼いころは、指と言わず足までも傷だらけで泥だらけだったような気がする。外で遊ぶことが人一倍好きだったことに加え、この性格が災いしてか、殴り合いの喧嘩だって何度もした。だからだろう、あの子の指と違って当然だ。結論付けてひとり笑う。返る声もない、言葉もない、この空間の寒々しさにはそろそろ慣れた。
――ああ、あの指がとても好きだった。加減を知らない大きな掌が肌を撫でる瞬間も、それでも柔らかく触れてこようとするやさしさが指先からいつも伝わった。女じゃないのだからそんなに気を遣わなくても、そう思う反面で涙が出そうなくらいに嬉しかったのだろう。大切に扱われることは喜びだった。――喜びだったのだと、今なら思う。口に出さなくても伝わっただろうか。伝わっていただろうか。
自分の指に、由成の指の面影を重ねて、そっと口接ける。最後の記憶に残る由成の感触は、あの小旅行の帰りに握られていた掌。やさしかった。いつだってやさしかったあの掌は今どうしているだろう。
あの指は、どんなふうに触れていた。あの指、彼の、左手は。
記憶に残る感触を探れば、思いもがけず鮮明にそれを思い起こすことができた。いつも痛々しいくらいにやさしい力で触れた。痛いくせにやさしいだなんて、由成の指でなければ思えない。最初は戸惑うように動いていた指先も、行為に慣れ出したころからは、よく自分を翻弄させた。
――痛くて痛くて泣き出しそうだった。
その指の感触を思い出せば、それだけで寂しい身体は熱を点す。
寂しいな、惨めだな。――虚しいな。そんなことを思いながら、恭一は冷たいテーブルに頬を押し付けて目を閉じる。ひんやりとした冷たさも、突然身体の芯から疼き出した熱を取り去ってはくれない。
当たり前のように火照った身体は、当たり前の動きで右手を自分のために動かした。
とてつもなく空っぽなのに、それでもまだ欲情するのは、男の性だろう、そうでなければ説明がつかない。手放した、決心した、諦めた。――この衝動に、説明がつかない。
この想いは惨めだから強いのか、強いからこそ惨めなのか。冷静に考えられたのはそれまでで、荒くなる呼気と共に指先がぬめりを増した。喉を突いて出ようとした声を抑えようと身体が揺らし、その際ガタリと揺れた椅子の脚に強かに踝を打ちつけても、それくらいの痛みで熱は消えない。
思い描いた左手を、思えば思うほど、感じれば感じるほど、ぼやけた思考に信じられないくらいの快感を齎した。悪酔いだ。こんなのは、悪酔いだ。
視覚で自分がどんな様になっているのか確認するのが厭で、ただひたすらに目を閉じても、濡れた音を響かせてなめらかに滑る指の腹が状態を伝える。硬くなる度、脈打つ度にこめかみ辺りが酷く痛んだ。
吐息に混ぜて、誰かの名前を呼びたかった唇は、その名を紡ぐ瞬間に固く閉じた。覚えのある感覚が背筋を走って、唇を噛んで衝動を留めるよりも早く指先が白濁に濡れる。
僅かに息を弾ませながらぼんやりと見た指先が汚れて、少しだけ視界が歪んだ。涙などでは決してない。そう信じたかった。
――片付けなければ。
こんな悲しい衝動も感情も床に零れ落ちた雫も散らばったガラスの欠片も、全部全部、今すぐに片付けてしまわなければ。
椅子に座り込んだまま、恭一は緩い動きで身を屈めた。
不透明な液体で濡れた指先で欠片を拾う。尖った硬質な先端が鋭く指の皮膚を抉った気がしたが、気にも留めなかった。血も精液も同じ。身体から一度出て行ってしまえば異物なのだ。
――だから同じ。
一度心から追い出してしまった気持ちも異物と同じ。もう二度と帰らなくていい。帰って来なくて、いい。
少しだけ泣いて、同じだけ笑う。
ひび割れた心から流れ出た感情ならもう要らない。戻って来るな。祈るように胸のうちで呟いて、恭一は散らばった欠片を漸く集め出した。
僅かに切れた指先の皮膚から、ポツリと粒のように鮮血が浮く。これくらいの傷なら舐めておけば治るだろう、そのまえに汚れた手を洗い流してしまわなければ。きちんと綺麗に、洗い流して――
――流せるものか。
この感情を、容易く流してなかったことになんてできるものか。
祈っていた。
流れ出て排水口に吸い取られる汚物と同じく、どこか遠くへ流れていってしまえばいいと思うよりも強く。
この感情が、いつまでも自分のものであればいい。必ず自分の元へ帰る、そういうものであればいいと祈っている。
どんなに胸が痛くてもいい、果てには壊れてもいい。この想いをなくしてしまえば、きっと同時に自分は自分としての境界線を失ってしまう。
痛みを持て余しながら祈っている。
まるで自虐にも近く、祈っている。

チャイムを鳴らすことすらせず、断りを得ないままに扉を開く。鍵はかかっていなかった。つまり、中に人がいるということだ。判り切っていたことを今更確認しながら、剣成はその部屋の中へ一歩を踏み出す。椎名。声になるかならないか、ギリギリの呼気で名前を呼ぶ。部屋の中で唯一呼吸をしている塊が、反応を返すようにぴくりと動いた。
丁度玄関の正面に置いてあるベッドに片膝を立てて、彼は窓から外を見下ろしていた。
「……何？」
１Ｋアパートの一室で、森村椎名という少年は息衝いている。それがどれだけの時間行われていることなのか、剣成は知らなかった。自分が彼の存在に気付いたときには、既に彼はそこに住んでいたからだ。
「おまえ、今日学校休んだだろ」
何をするでもなく、壁際に背を凭れ、椎名はゆっくりと視線を向けてくる。まるで子供が何かを問い掛けるように、他意のない幼い仕草で。それを真っ直ぐに見返しながら、剣成は努めて冷たい口調で返した。
「プリント持って来た。それと――これが数学の課題」
学校行事やクラスの様子などを記した保護者向けのプリントを数枚取り出し、剣成はそれをテーブルに置いた。椎名がそれを持ち帰っても、それに目を通す保護者などいないことは判っている。椎名は、この部屋で一人暮らしをしているのだ。剣成の知る限り、保護者のような大人がこの部屋に訪れたことは一度だってない。だからこの部屋には、いつもインスタント食品のゴミが散かっている。当たり前だ。中学生が、ひとりでまともな食生活を送れるはずがない。この状況が明らかに異常だと気付いていたのに、それを追及したことはなかった。
「……めんどくさい」
「……おまえのところまでこれを持って来た俺のほうがどれだけ面倒くさかったと思ってるんだ」
自分をみつめる目の端に小さく光が煌いて、それはやがて笑みの形になった。
「先生に、たのまれたの」
「ああ」
「断れば……よかったのに」
「次からはそうさせてもらう」
どこから嗅ぎ付けたのか知らないが、自分とこの問題児が他よりも親しいことと、普段は教師の覚えもめでたい優等生で通っているせいもあって、剣成は頼まれ事をされることが多い。加えて、頼まれたことは断りきれない厄介な性質でもある。
うそつきと、歌うような軽い口調で椎名が嘯いた。
「俺に、会いたかった？」
「――……」
「俺に会いたかったよね？　だって俺、もう一週間学校行ってないもんね。そろそろ、限界だったんだろ。……ね、剣成」
笑みの形を保ったまま、瞳の奥だけが酷薄に輝く。その視線に真っ直ぐに射抜かれただけで、いとも簡単に身体が竦んだ。
「ほらおいで。抱いてあげる」
伸びた手が腕を掴む。この部屋に入ってきた瞬間から、気付いていた。いつもより静かすぎる空気、いつもよりも幼すぎる言葉、いつもよりも危うい雰囲気。
「一週間も放っておかれて、がまんできなかったんだよね」
「……なっ……」
あまりの言葉を吐き捨てられ、頭が真っ白になる。ふざけるなと手を振り払おうとすると、椎名の脚が強かに剣成の足首を蹴り上げた。その箇所に痛みを覚えるよりも早く、バランスを崩した身体はあっけなく床に転がる。剣成が起き上がるのを待たずに、椎名はゆっくりとその身体に圧し掛かってきた。
「今日は、大人しく言うこと聞いて」
それでもまだ足掻こうとすると、首を掌で包まれた。細い指は容易く酸素を奪い、ぎりぎりと薄い皮膚に爪を食い込ませてくる。空気を求めて唇を喘がせた剣成の頬を強かに打った椎名は、信じられないくらいに甘い声で囁きを落とした。
「……じゃないと殺しちゃう」
どこか翳りを帯びた視線がふいに反らされた瞬間に、剣成の世界が逆転した。

殴りつけられるのはいつものことで、その痛みを目を瞑って堪えると、やはり打ち据えられた頬の奥がジリジリと疼いた。殴り付けられた瞬間の、目が眩む一瞬を突くように身体を言葉もなく開かされても、抗議の言葉など己の口から出て来た試しがない。
あと一ヶ月。あとほんの一ヶ月だけだと言い聞かせ、薄い皮膚を探る掌の感触に唇を噛んで耐えた。卒業すれば――彼と自分とを繋ぐ、学校という空間さえなくなってしまえば。あっけなく、エンドマークが打たれるはずだ。
少しでも快感を感じて声でも上げれば、きっとこの男は嘲る。嘲って、淫らな身体を容赦なく罵る。
だから剣成は口を噤み、声を殺し言葉を殺す。そうやって、言わない言葉を、心の奥の更なる深みへと突き落とし続けていた。
「遊びだよ」
血の味にはとても相応しくない無邪気な声が落ちる。声は笑っている。そして泣いている。
何が遊びだと、叫んで、その唇に噛み付いてやりたかった。
初めから、強姦のようなやり方だった。あのときはいきなり頭を殴りつけられ、何度も床に叩きつけられた。抵抗は勿論したけれど、椎名に出会うまで人を殴ったこともなかった拳では、到底適うはずもなく、どうしてと尋ねたような気もする。唐突な展開に頭がついていけず、陵辱する指先に流された。それが一度きりではなく、何度も何度も重ねられ、続いた。
ただ、それだけのことだった。
思わず漏れる声に、椎名一瞬だけ、ひどく楽しそうに笑みを落とす。
退屈なんだ。なにもかも。楽しいと思ったことなんか生まれてから一度もないんだ。
それが椎名の口癖で、いつも笑っているくせに本当は少しも笑っていない暗い目の奥が、多分気に入っていた。覗いてみたいと思っていたのだろう。深い場所に落ちる闇。一度だって目にしたら、きっと一緒に落ちててしまう。それでもいいから見せてくれないか、おまえの一番に深い部分、奥の方を、見せてくれないか。
「剣成、ねえ、……きもちいい？」
悔しいと、思わなくはなかった。けれど冷たい何かが頬に落ちて、それが彼の涙だと気付いたときには、もう何もかもがどうでもよくなってしまっている。それも決まりごとのようなものだった。いつもの、当たり前になってしまっている、自然な流れだ。
「……しいな、」
焼け付くような痛みに耐えられたのも、落ちる雫の冷たさがあったからだと今なら思う。
おまえが泣くなら、それでいいよ。
──俺はなんでもいいから、もう泣くなよ。

ああ、また勝てなかった。重たい腰とズキズキ痛む頭を押え、剣成はひとり残された部屋の中で溜息を吐く。遠くでシャワーの水音が聞こえた。椎名が浴室を使っているのだろう。
痛みに、もう涙も出て来ない。人間は適応していく生き物だと学習している。随分と慣れてしまった今では、最早ありえないと思っていた場所を使ってのセックスも、痛くて苦しいだけの暴力も、何かしらの手段にしか思えなくなっていた。そうだ、手段。これは唯一の手段なのだと思うと苦しさが僅かになくなった。あの判らない男の、深い場所に沈む澱を知るための唯一の手段。
「……椎名？」
浴室のドアが開き、乾き切らない前髪から雫を滴らせながら椎名が戻ってきた。ひどく静かな顔をして、タオルの下から剣成の顔を真っ直ぐに見つめてくる。この瞬間だけ、椎名は笑わない。ふいに視線が絡み合ったときだけ、決して笑みを作ったりはしない。
好きも嫌いも愛も心もない不可思議な次元で、彼は生きているのだと唐突に思った。
「……でんわ、が」
ひどく静かな声で、立ち竦んだままの椎名はそれだけを呟いた。
「――電話？」
理解できない呟きに、剣成はそっと眉を寄せる。部屋の中に置いてある電話を探そうと視線を巡らせると、その視界を奪うように椎名が手を伸ばしてきた。
「鳴るんだ。ずっと。……俺を呼んで、こわかった」
伸ばされた手は、そのまま剣成の首へと回る。子供が母親に甘えるときのような仕草に、剣成は自然とその身体を抱きとめていた。
「……誰が？　誰がお前を呼ぶんだ」
「お父さん。それと――兄さんかなあ」
まだ湿り気を帯びている髪に触れると、椎名がそっと息を吐くのが判った。
「こわいよ」
脈絡のないような会話を続けて、椎名は強く剣成の身体を抱きしめた。抱きしめて囁いた。「いきたくない」と。
「電話がね、……ずっと鳴ってた。何時間も。鳴り止まなくて、こわくて、――俺はまだいきたくなんかないのに……」
耳元での囁きを聞きながら、剣成は視線を巡らせる途中に、息を詰めた。部屋の隅に、忘れ去られたかのように置き去りにされた、硬質な何かの残骸を見つけたからだ。
「電話線、抜いてもね。鳴るんだ。壊しても。ずっと。いやだ。こわいよ。俺はまだここにいたい。いたいんだ」
元は電話の本体であったのだろう、何かに叩き付けられたかのようにボロボロになった残骸から伸びる細いコードは、無残に千切れていた。
「……まだ、鳴ってるのか？」
繋がるものを跡形もなく壊しても尚、椎名が怖れているものの正体を剣成は知らない。知ろうとも思わない。そんなものは、関係がない。
「まだ、お前を呼んでいるか」
何が椎名を脅かしていようと、何に怖れていようと、何を越えて何を受け止めて椎名が形成されていようと、関係がない。――この心には、関係がない。
抱きしめた体が小さく身じろいで、ううん、と微かな動きで首を振った。
「剣成。耳、ふさいで」
俺はね。笑いながら人を殺せると思うよ。
他人の話をするように、やわらかな表情で言った男と同じ人間とは思えない声で、頼りなく椎名が囁く。
「お前の声で、俺の耳、塞いでて」
ゆっくりと顔を上げた椎名は、そのまま剣成の唇を塞ぐ。
人を。殺せると思うよ。――笑いながら。そう言ったのに、そうなりたくないと叫んでいる声が、震えるはずのない鼓膜を震わせた気がしていた。
答えが返る間も待たず、椎名が再び剣成の身体をシーツに押し付ける。まだ残っている湿り気に、まともな前戯もないままに挿入が行われた。痛いと、一瞬だけ思った。けれどそれを口にはしない。痛みを口にすることは、自分たちの関係に何の揺らぎも与えない。
「……椎名」
名前を呼ぶと痛みが薄らぐかと思ったのに、効果は全くの反対だった。なのに名前を呼ぶことを止めようとは思わない。「椎名、椎名、」と子どものように何度も名前を繰り返して呼ぶと、シーツを掴んでいた手を上から重ねるように握られて、胸の痛みは極限までに増した。痛い。胸が痛い。助けて。助けて。
「椎、名……椎名っ」
壊れちゃえ、と椎名は言う。かなしそうな顔をして、おまえなんか要らないと吐き捨てる。
嘘だ、と思った。
壊れることを望むなら、そんな顔はしない。壊れることしか望んでいないなら、この頬に冷たい水など落ちたりしない。壊れないものを探している。どんなに傷付けてもどんなに酷く扱っても、決して壊れない、離れていかないものを、椎名は、手探りで探している。それなら付き合ってやれるのは自分くらいだと思ったときに、剣成は愕然とした。
抗えない。
――どこまでも、一緒に、おちてもいい。
理科準備室の埃臭い空気の中、椎名はスプーンで掬い上げた白い粉を、そっと火で炙る。煙になって立ち上がったそれを酸素と共に吸い上げる、その仕草をこれまで何度も見てきた。何度も見てきて、知らない顔をしていた。それでもたったの一度だけ、その薬瓶を無理矢理取り上げたことがある。まだ出会って幾日も経っていないころだ。それが倍返しの暴力になって返ってきたから、剣成は諦めて、許してしまった。「いろんな遊び方があるんだよ、」詰まらなそうに笑った椎名が、自分の目の前で薬に耽ることを、許してしまった。
けれどその遊戯に椎名が自分を誘ったことは一度もない。ただ自分と彼の間にある隔たりを見せつけるだけだ。
窓の下を見下ろせば、校庭で何人もの生徒がボールを蹴り、また陽の当たる場所で談笑している。この寒い中、よほど元気なのだろうと感心してみせるのは、何も剣成だけではない。
「もう潮時かな」
ぽつりと呟かれた言葉に、ほんの一瞬だけ体が強張った。何をと問う前に、椎名は続ける。
「ここ。卒業しちゃうからね。誰かに見つかったら大変なことになるし、他に隠し場所考えなきゃなあ」
面倒臭そうに言い退けた椎名は、ゆっくりと身体を起こすと、乱雑に薬瓶が置かれた棚の中から、殊更に小さな瓶を取り出した。木を隠すには森。椎名は単にそれを実践しているのだ。
椎名の掌に収まった小瓶を、剣成は何も言わずに取り上げた。
「止めときな。おまえは――」
椎名は目だけでちらりと笑う。強く制することもせず、歌うように言葉を継いだ。
「――きれいな身体でいなよ」
いつだって彼の声は甘く、歌うような温度で心地よく鼓膜を過ぎる。
何もかもが、遊びなのだろう。
――好きも嫌いも愛も心もない次元で、生きているのだから。
「……これで最後だ」
宣言するように呟いて、剣成は小瓶を硬質な床に叩きつけた。耳障りな音を立てて弾け飛んだガラスの破片に、白い粉が混じる。最後に。最後にするから。
「俺がおまえを止めるのも、……許さないのも、これで最後にするから」
――最初で、最後にするから。
内側から崩れているのをただ傍観していた、そのことを。
椎名は何も言わず、粉々に砕け散った小瓶の残骸を見下ろしていた。何の感慨もなく、ただじっと。――たった今放たれた剣成の言葉の意味を、咀嚼するように。
「……ふうん」
唐突に顔をあげた椎名は、ひどくつまらない世間話でもしているかのような表情で一つだけ頷いてみせる。
「いいけど。別に。――お前、男なしでやってけんの？　俺があんなに仕込んでやったのに」
酷い言葉を平気で吐く。今は、傷付いた顔などしてやるつもりはなかった。
「どうせ、卒業したら終わらせるつもりだったんだろう。一ヶ月くらい早くなっても不都合なんかない」
「……そうなの？」
笑った椎名の声は、より深く剣成の胸を傷付けた。決別を覚悟して悲壮な決意でいたことさえ、まるで自分だけの独りよがりみたいに、意外そうに目を丸めて見せる。
最初からこの関係は、軽いものでしかなかったと思い込もうとした剣成に、揺らぎをかける。
「まあいいや。……じゃあね」
言葉一つを放り投げると、椎名はそのまま真っ直ぐに出口に向かって歩いていった。その背中は二度と振り向かない。一歩、二歩。足音を数え、扉が開き、また元通り閉まっていく音を背中で聞いていた。
――きゃらきゃらと、弾けるような明るい声が響く校庭は、穏やかな冬の光が差し込んでいた。冬の光は、やさしい。春が近付くにつれ、少しずつ強くなっているのに、それでもやさしい。穏やかで、暖かい。
もう椎名の気配はどこにもない。戯れるように身体と言葉と視線をかわした、あの時間は返らない。
終わった、と思うと涙が出た。安堵からの涙だろうと思うことにする。まさか、悲しみなどではありえない。もしも万が一、この胸に悲しみに近い感情が残っているのだとしたら、一体何を嘆いているのだろう。
強烈な痛みに。
何を嘆こう。
滔滔と。
嘆くとすれば、あまりにも自然に間違ってしまった、あまりにも自然に流れていった時間を最初から。巻き戻せないのか。もう、戻れないのか。祈るように思っていた。もしも始まりに戻るなら、今度こそ違う形に。今度は、許さずに。
遠ざかる足音を背中で聞いていると、涙が次から次に零れ出た。滔滔と流れるそれを止める術など持たない。
――椎名。
幸せだと思った。彼のどこか壊れている回路を見つめ続けて、万が一にもそれに巻き込まれていくなら、幸せだと思った。抗えないくらい、好きだと思った。
――だから。
滲む視界で、剣成はふいに窓の外へ視線を遣る。
どうして、あんなふうに、暖かい陽の下で。
笑い合うことも、できなかったのだろう。
――どうしてそれを、望んでくれなかったのだろう。
やっと終わらせた。
恋だと知っていたのに一度も伝えられなかった。そんな自分に相応しい、惨めな、悲しい終焉だった。
恋も、愛も、稚拙すぎて、この唇が吐けるはずもなくて。