空になったグラスの中で、氷を悪戯に鳴らす。帰ろうか、それとももう少しだけ粘ってみようか。ほんの一瞬思案して、結局亮は口を開いた。――否、開きかけた。
「小坂さん、こんばんはー。なんか適当に一杯もろてもええ?」
亮が口を開きかけた一瞬前、扉の開く音が新たな来客を告げた。と同時に、気さくな口調で注文を告げた客を、思わず凝視してしまった亮に、彼は「あ、」と口を開けて気まずそうに頭を下げた。残念ながら、亮の待つその人ではなかったようだ。
「……すみません小坂さん。俺もこれと同じもの、お願いします」
「あはは、うん、わかった。注文かぶっちゃったんだねえ。気が合うねえ」
気の好いバーテンダーは気さくに笑い、「ちょっと待ってね、矢野君が先」と言い置いて新たなグラスを取り出した。
ここに通うようになって、かれこれ二年ほど経つが、この男を見かけたのは今日がはじめてだ。とはいえ、亮がこの店に滞在するのは、決まってラストオーダーに近い時間帯なので、そのころまで居座る客は数えるほどしかいない。好んでこの時間に訪れるのは、北沢祐正くらいだろう。
「それにしても矢野君は珍しいねえ、こんな時間、平日なのに。大丈夫なの?会社は?」
「あー……うん。明日はな。ちょお、有給取ってんねん」
「……ああ。そう。うん。そうか。だねえ。明日はねえ」
「なんやの。やらしいなあ」
新たな客は、亮から二つほど席を開けたカウンター席に腰を下ろした。親しげな会話を交わすバーテンと、矢野と呼ばれた男は、どうやら旧知の仲らしい。
含みのある笑い方をした小坂は、ふいに思いついたように、彼に向かって自分を指さして見せた。
「ねえ矢野君、君、この子知ってるでしょう。片山亮君」
指さきに導かれて、ゆっくりと視線を合わせた矢野は、そのまま目を大きく見開いて、「ああ!」と感嘆の声をあげる。
「やっぱり! そうやないかなとは思っててんけど。うわー、片山亮がここにくるって話、ほんまやったんやな」
「うん、そう。ほんとなんだよー。どこから漏れた話か知らないけど、ここ最近新規のお客さんが増えたのは片山君のおかげかなあ」
そんな大げさな、と亮は苦笑する。こじんまりとしたこのバーは、閑古鳥は鳴いてはいないが、客がひしめき合うほど繁盛しているとは言えない。また自分も、そしてよく連れ立ってここに訪れるあの人も、あえて混む時間を避けるように訪れているのだから、自分目当ての客がわざわざ訪れているとは思えなかった。
「いや、ほんとだよ。片山君は前ほど頻繁にはきてないうえに、いつも変な時間にきてるから実感ないかもしれないけど、特に女性のお客さんが増えてきてるんだよねえ」
「そうなっててもおかしないわなあ。俺でも知ってるくらいやもん。深夜やってるドラマ、俺、見てますよ」
「ああ、それは……ありがとうございます」
まっすぐに好意を向けられて、亮は少しばかり戸惑いながら微笑んだ。
「矢野君、深夜ドラマなんて見るの?」
「残業終わって飯食って、てやってたら、ちょうどええ時間にやってんねん。おもろいで。人間関係複雑で。昼ドラにはまる主婦の気持ちがよおわかる」
亮にとってはドラマデビュー作でもあり、運よくそれなりの役付きで出演した深夜ドラマは、つい先日クランクアップを迎えたばかりだった。男女のドロドロの愛憎劇を描き、きわどい描写もある恋愛ドラマは、OL層を中心に人気が出たと聞く。
「来週が最終回やんな。で、君、来週死ぬん?」
「……言って大丈夫ですか?」
「いや、すまん。黙っといてくれ。俺、君の役が好きやねん。あの子だけがあのドラマの中でびっくりするくらいの善人や。死んだらショックやな」
この明るく、さわやかに笑う印象の男が熱心に見るような内容とは思えなかったが、社交辞令はありがたく受け取ることにした。
ストーリー自体は単純で、よくある三角関係の話だ。ちなみに亮が演じる、ヒロインに横恋慕する幼馴染であり、幸の薄い人生を送っていた一途な男性は、矢野の予想を裏切ってギリギリ死なない。
自分勝手で自己中心的だが、魅力的でカリスマ性あふれる男性に惹かれ、振り回される主人公の女性。その主人公を陰ながら支え、愛し抜いた亮の演じる青年が、トラブルに巻き込まれた女性の身代わりに刺されたところで先週は終わっている。
「ありがとうございます。見てやってください」
死にませんよ、大丈夫です、と言ってやりたい気がしたが、亮は笑ってその言葉を胸に秘めておくことにした。
「……ほんまに、男前やなあ」
亮の微笑みを真正面から見つめて、矢野は溜息をこぼすように呟いた。
「作り物、みたいや」
まるで子供のように、素直に感心されてしまっては、さすがに居心地が悪い。
「こらこら矢野君、あんまり見すぎちゃ行儀が悪い。……それに、梶原さんが妬くよ」
「なんやそれ、気持ち悪い」
苦虫をかみつぶしたような顔で、矢野が答える。内容はともかく、よく知った名前が聞こえて、亮は首をかしげた。
「ああ、もしかして梶原さんのお知り合いですか?」
それなら、小坂との付き合いも長くて当たり前だ。この店は、元は梶原の持ち物なのだから。
「知り合い言うか、うん、知り合い。……知り合い」
納得しかけた亮をよそに、矢野はなんだか複雑そうな顔をしている。
「そんなぼんやり言わなくても。片山君だって梶原さんを知らないわけじゃないんだから、きちんと言ったって別に支障はないでしょう」
「いや支障あるやろ。……片山君は、いつもこんな遅い時間に飲みにきてるん?」
何か不都合があるのか、梶原の話題をさっと切り上げた矢野は、小坂からグラスを受け取りながら問いかけてきた。
「ええ、まあ。俺というか……祐正さんに付き合うと、いつもこの時間になってしまうんですが」
「なんや、祐正君も知ってるんか」
「知ってるも何も、モデルさんとカメラマンだよ? もうこの人たちもずいぶん長い付き合いだよ」
小坂に笑われ、矢野は「ああそうか」と納得している。どうやら彼は祐正とも親しいらしい。
「祐正君は、相変わらずここに飲みにきてるんやな。ずいぶん、会ってないなあ……」
「矢野さんは、ここは久しぶりですか?」
「うん。俺、ここに出入り禁止になってんねん」
グラスを傾けながら、矢野は苦々しく呟く。
「出入り禁止?」
「もう、何年も前やけどな。ここで酔い潰れてもうて。……ここのオーナーから、みっともないって禁止されてんねん。つぶれたらどうなるかわからんからって」
「はあ……」
それほど矢野は酒癖が悪いのか。そこを心配するあたり、あの世話好きのオーナーらしい気もする。
「それで、出入り禁止の矢野君は、どうしてわざわざうちにきてるの?」
亮のグラスを準備しながら、どこか悪戯っぽい顔で小坂が尋ねる。
「梶原さん、帰国は今日でしょう。見つかったら、怒られるんじゃないの?」
「……帰国が、今日やからやろ!」
すねたような口ぶりで、矢野は小さく答えた。
「今回は帰ってきたら、真っ先にここに寄るんやないかなって。なんか小坂さんに用事があるっていうてたし」
「うん、僕はもちろんそれを知ってるわけだけども。だから、梶原さんと遭遇して、怒られるかもしれない君を心配してるんだけどなあ」
もごもごと口ごもりながら、グラスに口をつける矢野の耳たぶが、かすかに赤い。
ふいに、自分と彼は、何かしらの共通項があって、ここにいるような気がした。
「それで、片山君は? ひとりで飲むにしては、今日はずいぶん長居をしているようだけど」
「いや、あの……祐正さん、今日大きな仕事が片付くので」
矢野の耳たぶを見つめながら、亮は答えた。小坂にはもとより、ここにきた理由を隠し通せると思ってもいない。
「たぶん、家に帰ってくるより先に、こちらに飲みに来るんじゃないかと……」
仕事が片付くたび、このバーで小坂相手に一杯やるのは、もはや祐正の習性である。
「あはははは! 君らは、まったくもう……」
かわいいなあ、と、腹を抱えて笑いながら、小坂はつぶやく。
「しかもふたりとも、おとなしくおうちで待っていれば嫌でも会える相手でしょうに。もう、本当にたまらないな」
亮へのグラスを差し出しながら、ささやかな菓子が乗ったガラスの受皿を差し出し、「可愛い君たちへサービスです」と小坂が笑う。
「ふたりとも、もう来るよ。あの師弟はめずらしくここで待ち合わせをしているみたいだから。まあ、君たちがそろって待っているとは、さすがに思っていないだろうけど」
どこで二人はようやく顔を見合わせた。
小坂の口ぶりからして、おそらく梶原と矢野は、そういう関係なのだろう。
そもそも梶原は、自分と祐正がそういう関係であることに、薄々気づいている節があった。にも関わらず、同性同士の関係に言及する様子もなければ、ただ自然に受け入れてくれている。それを不思議に思うことはあったのだが、つまり、そういうことだったのだろう。
多少、梶原を知る亮にでも、彼が少しばかり変わり者であることは知っている。何しろ、初めて彼と会ったのは、祐正の不在中、勝手に彼の部屋を掃除していたときという、かなりおかしな初対面だったのだ。
その上、年中海外を旅しているというのだから、なかなか苦労をしそうな相手だ。
「……なんやの」
などと考えていると、ついうっかり矢野を凝視してしまっていたらしい。
「すみません、つい。……梶原さん、いい人ですよね」
「はは、ええよ、そんなとってつけたように……」
おかしそうに笑いかけた矢野が、ふいにある一点で視線を止めた。ちょうど亮の背後にある扉。と同時に、扉の開く音がする。
「……だからそれは、俺が悪いんじゃねーんだって」
「うるさい。俺に言い訳してどうするんだ」
「だって梶原さんが、いまさらそんな話を俺にするからじゃん。……あれ? 珍しい人がきてんね」
扉が開くと同時に、にぎやかな話し声が途切れる。片方は、ずいぶんと待ち侘びた北沢祐正その人。その連れは、もちろん、梶原雄高だ。
「いらっしゃい、祐正君。梶原さんも。いつものでいいかな?」
「うん、よろしく」
祐正は、一瞬だけ亮を一瞥すると、すぐに矢野へと視線を滑らせた。
「そうとう久しぶりだねー矢野さん。元気だった?」
亮には一言も声をかけないまま。しかし祐正は、当たり前のように亮の隣の席へ腰をおろし、その瞬間に「お疲れ様」という合図のように、亮の肩をいつもの仕草で軽く叩いた。
それだけで十分だ、だなんて思うのは、おかしいだろうか。
「あー、うん。ひさしぶり」
「飲みにくるのとか珍しいよね? ていうか矢野さん、確かここ出禁になってたんじゃなかったっけ? ……て、さすがにもう出禁なんか解けたか。ずいぶん前の話だもんねー」
「小坂、勘定だ。こいつの」
親しげに会話を続ける祐正を余所に、梶原が冷たく小坂に放つ。
「……て、わけでもなかったのね」
「……みたいやな」
思わずがくりと滑ってみせた祐正に、矢野は気まずそうな声で、小さく応えた。
「当たり前だ。帰るぞ。小坂」
「はいはい、矢野君のお勘定ですねー」
「ほんとに容赦ないな、あんたは! いいじゃんちょっとくらい、俺矢野さんと会うの相当久しぶりなんだけど!?」
「こいつの酒癖の悪さを知ってて、黙ってホイホイ飲ませるわけないだろうが。……和秋」
「はいはい……あんたも相変わらず、おかんみたいやな」
がっくりと肩を落とした矢野は、それでも梶原に従って大人しく立ち上がった。
「ほんなら、祐正君、またな。片山君も。また機会があったら」
「あ、はい。どうも」
矢野にあわてて頭を下げると同時に、目をやった梶原が、挨拶代わりに亮へ小さく会釈する。亮自身、梶原とも久々に遭遇したのだが、どうやら、のんびり話をする雰囲気ではなさそうだ。
「あ、そうそう、梶原さん。矢野君がね、さっき片山君のこと、男前だって」
勘定を済ませながら、小坂がのんびりした声で、とんでもないことを笑いながら口にする。
「そんなこといったら梶原さんが妬くよって、僕は言ったんですけど。矢野君は、そんなことないだろうって。……ねえ? ほんとのとこは、どうなんでしょうねえ?」
にこにこと微笑む小坂に、梶原は動じない様子で視線を向け――わずかに片眉だけをあげて、不快そうな表情をした。
「……またな、祐正」
すっかり固まってしまった矢野を引きずるようにして、梶原は店から去っていく。彼が祐正とともにこの店に現れてから、ものの3分。嵐のようにやってきて、嵐のように去って行った。
「……あ、悪魔だ……! あんた、悪魔だ、小坂さん……」
ゆっくりと扉が閉まっていく音を聞きながら、祐正が小さく呟く。
「いやいや、あのふたりはね、安定しすぎちゃってるから。たまにはこれくらいの刺激があるくらいでちょうどいいんだよ」
完全に面白がっている。
「……それにしたって梶原さん、過保護すぎねえ? 矢野さん、俺なんかよりも、年上なのに。あの人だけ時間が止まってんじゃねえの」
祐正ですら同情するような目で、扉を見送っていた。
「俺にだって、いつまで経っても高校生相手にするような態度だしさ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。知り合ったときがそんくらいだから、仕方ないのかもしれないけど。飲みに来るくらいで、あんなに怒るもんかよ」
「うーん、でもたぶん、今のはねえ……」
祐正の前にグラスを差し出しながら、小坂がひとりごちる。
「自分の帰りを待ち詫びて、ふだんこないこの店にまで来て待ってるなんて、たまらないでしょう。梶原さんにしてみたら。体の好い言い訳して、さっさと連れて帰りたかったんじゃないかなあ……」
「ああ……なるほど」
「何それ。そんな可愛いわけねえじゃん、あの人が!」
祐正は苦虫を噛み潰したような顔をして否定したが、亮にはあながちそれが、間違っているとは思えなかった。
「あんたも多少、待ちわびているほうの気持ちをわかってくれたらいいんですが」
「何? なんか言った?」
「……いいえ、なんでも。お疲れ様でした」
ごまかすように、亮は祐正の手元に届いたグラスに、自分のグラスを傾ける。
「明日は? おやすみですか」
「明日? うん、しばらく。明後日はちょっとした打ち合わせが入ってるけど、わりとのんびりできるよ。何? なんか予定あんの?」
「いえ、予定というほどのものじゃないんですけど。……あんたが見たがってた映画のレンタルが始まってて。今日借りてきたんですが、一泊なもので」
自分としては、ここでだらだらと飲み明かすつもりはない。
できれば早く、家に帰って、ふたりでゆっくりと時間を過ごしたい。
待ち侘びていた自分の、正直な感情だ。
――待って待って、待ちくたびれたのは、彼ばかりではないのだから。
「……いいねえ」
亮の言葉の意味を理解して、祐正は、くしゃりと笑った。――ああ。キスがしたい。そののどもとに、噛みつきたい。
「じゃあ、これ飲んだら帰るか」
「そうしてください」
二人の会話を聞いているのかいないのか、小坂はにこにこと笑いながら、少し早いけれど、と店内の明かりを下げた。
「もうどうせ誰もこないしね。ちょっと僕、看板下げてくるよ」
そう言い終えて、小坂は外へ出ていく。
耳触りの好いジャズが流れる店内で、ようやく二人きり、沈黙が落ちる。
隣でグラスを傾ける祐正の横顔は、疲れを残しながらも、充実感に満ちた横顔だった。
「……早く飲み終わってくださいね」
「ん?」
「早く、キスがしたいです」
「はは。……ばかだなあ、お前」
笑いながら、彼は勢いよくグラスをあおった。
残りは、わずかだ。
【胸刺す雨空は曇れど】…清田奥村。の昔
降り出した雨は細く、確実に制服を濡らし続けた。「ツいてねえ、」清田が隣で独りごちるのを他人事の思いで聞く。暫らくは独り言のように「濡れる、」だの「風邪を引く、」だのと文句を言っていた清田が、強まっていく雨音に散々喚くので、仕方なく奥村は口を開いた。
「雨だった」
「は? 何が?」
「天気予報」
午前中の降水確率はニ十パーセント、午後からは七十パーセントと、記憶が正しければ朝のニュースで言っていたはずだ。
「んなもん見てねーよ、そんな暇あるか。忙しいんだよ朝は」
卒業を一週間後に控え、来月からは晴れて高校生になるというのに、清田はまだ落ち着きがない。そう言えば今朝も、ホームルームにギリギリ間に合わない時間に教室へ滑り込んだことを思い出す。
「自業自得だ」
正しく言い切った奥村に、清田は唇を尖らせる。あぁ冷たい、と当てこするように言われても、雨雲を払う術など自分は持たない。ポツポツと降り注ぐ雨はまだ細く、しかし時間が経てば大雨になるのは容易く予想できた。今のうちに早足で歩いて帰る以外、雨を避ける方法はないだろう。
「この時期濡れて帰るってのはちょっと辛いんだけど。寒ィし」
「走れ」
「俺かよ」
白い息を吐きながら清田が笑う。文句を言うわりには、雨を避けて走る気配を一向に見せなかった。代わりに雨宿りをしようとも言い出さない彼は、もしかしたら知っているのかもしれない。
「おまえなんかと相合傘をする趣味はない」
「けどこのままじゃ濡れるだろ。濡れたら風邪引くだろ。風邪引いたら困るだろ。下手に今風邪なんか引いたら卒業式出れなくなるかもしれねえから。俺が卒業式いなかったら嫌だろお前」
「静かでいい」
奥村が出掛ける際母親に呼び止められ、持たされた折り畳み傘の存在を、予め知っていたのかもしれない。
「俺は嫌だからな、お前と揃って卒業できないの」
あどけなく、率直な清田の声を笑って馬鹿にすることも出来ず、奥村はわざとらしい溜め息を聞かせると、鞄の中からコンパクトに纏まった傘を取り出した。雨はさっきよりは強まっている。それでもまだ傘がなくとも耐えることのできる範囲だろう。せめてこの雨が、細く優しいものである限り、傘を広げるつもりはなかった。奥村が傘を広げるよりも早く、清田の手がそれを奪う。深いグリーンの布に一瞬視界を奪われ、当然のように清田の手に収まったそれは、やがて二人の頭上に落ちる雫を遮った。奥村は、こうなることを知っていた。知っていたから取り出したくなかった。
清田の手に握られた傘は、奥村のほうへ傾いている。
「濡れる」
「文句言うなよ。これ以上おまえの方にやったら俺がびしょ濡れになるだろー」
「判ってる。おまえが濡れる」
今でさえ充分に清田の肩は濡れている。傘が自分のほうへ大きく傾いているせいだ。
「だっておまえの傘だからな」
笑った清田の横顔を、奥村は不思議な気持ちで見つめた。時折、彼は勘違いしているのではないかと思う。自分を動物か、そうでなければ歳の離れた弟とでも勘違いしているのではないか。間違っても庇護されるべき対象ではないのに、清田は時折、自分のことを優しく扱った。何故かそのことを嘆きたくなる。
「だから走れ」
「やだよ。無駄な体力使いたくねえんだよ」
傘の大きさは充分ではない。清田に比べれば少量とは言え、空から落ちる雫は容赦なく奥村の肩も濡らした。恥ずかしげもなく男同士の相合傘をやってのける清田の神経を疑いたければ、それを無理に止めようとも思わない自分を疑いたくなる。
何かがおかしいと思えば、雫の冷たさがいっそう増す気さえした。
「雨、強くなりそうだな。家に帰るまでこれくらいで済めばいいけど」
雨はまだ強くなるだろう。しかし奥村は口を開かず、黙って頷いた。
降り注ぐ雨の針に刺されているのは肩ではなく、身体ではなく、もっと奥のほうに潜む柔らかい部分だと、またその痛みはこれからも尚続いてゆくのだと知って、奥村はほんの僅かに俯いた。「どうした、」訝しげな清田の声には、雨が目に入って痛いからと言い訳を選ぶ。嘘じゃない、本当じゃない。――嘘じゃない、痛い。けれどまだ、家には着かなくても、いい。
友情でも恋でも、痛みを嘆く理由は未だ見当たらない。
【愚者の生命線】
物が壊れていく音はどうしてこんなにも空虚なのだろうと思う。今まさに、目の前で机の端から落ちて床に叩き付けられたグラスが、騒々しいくらいの音を上げて弾けるように割れた。決して静謐ではない音なのに、どこか空っぽだ。例えばそれを言葉で表すとすればとても稚拙で、子どもが猫を構うとき、にゃあと鳴き声を真似する、それくらいの拙い、詰まらない表現にしかならない。
引き止めようとした手は間に合わなかった。グラスは無残にもひび割れ、欠片はフローリングのあちこちに飛び散っている。踏ん付けたら痛そうだ。まるで他人事に思いながら、恭一は気だるく前髪を掻き上げた。早く片付けなければと思うのに、一向に気が向かない。
グラスの中身が空だったのは幸いだろう。こんなにもしんどいのに雑巾掛けまでしてやる気力はない。身体が重く感じるのは体調不良のせいではなく、単に二日酔いであることは承知で、頭痛が一向に引かないくせにまた酒を煽っていた自分はどうしようもなく愚かだ。酒もすぎれば毒になる、心地よいテンションを与えてくれるはずのアルコールも頭痛を紛らわせてはくれなかった。
あの無駄に育ってしまった少年がここにいれば、少しの苦笑とやさしい叱咤を口にして、すぐさま床を片付けにやってくるのだろう。
――恭さん、歩かないで、危ないから。
そんなふうに忠告しながら身を屈めて砕け散ったグラスを拾い上げる姿さえ瞼の裏に浮かんでくる。
自分が片付けに手を貸そうとすれば、要らないと首を振るのだろう。――あんた掃除は下手なんだから、邪魔しないでくれ。怪我をする。そうやさしく皮肉りながら、綺麗に床を片してくれるに違いない。
不便だと、散らばって照明を反射するガラスの欠片を眺めながら恭一は思う。あのデカいのは、いたらいたで家が狭く感じるし、相変わらず見下ろされるのは好きではなかったから、邪魔で邪魔で仕方がなかった。しかし、いないならいないで不便だ。片付ける人間がいない。自分が汚した床を片付けてくれる由成がいない。
大きく育ってしまったあの子の指は大きくて、そのくせ器用に動く。重ね合わせれば自分の掌との違いは明らかだった。幼い頃は少女のようだった掌も、今は無骨でしかなく、強く触れられると痛みを感じた。けれどそれが嫌いではなかった。
そんなことを思い出して、思わず自分の掌をじっと凝視する。
椅子の背凭れに深く背を預けた格好で、上向きに翳して見た掌は、由成のものに比べれば小さいのだろう。そういえば指まで綺麗な子どもだった。外に出て遊ぶことも知らず、ひたすら家の中で息衝いていれば傷一つなくとも不思議ではないのかもしれない。もしくは子どもの指というものは無条件で綺麗なものなのだろうか。
「――俺がガキのころは汚かったけどな」
それでも自分が幼いころは、指と言わず足までも傷だらけで泥だらけだったような気がする。外で遊ぶことが人一倍好きだったことに加え、この性格が災いしてか、殴り合いの喧嘩だって何度もした。だからだろう、あの子の指と違って当然だ。結論付けてひとり笑う。返る声もない、言葉もない、この空間の寒々しさにはそろそろ慣れた。
――ああ、あの指がとても好きだった。加減を知らない大きな掌が肌を撫でる瞬間も、それでも柔らかく触れてこようとするやさしさが指先からいつも伝わった。女じゃないのだからそんなに気を遣わなくても、そう思う反面で涙が出そうなくらいに嬉しかったのだろう。大切に扱われることは喜びだった。――喜びだったのだと、今なら思う。口に出さなくても伝わっただろうか。伝わっていただろうか。
自分の指に、由成の指の面影を重ねて、そっと口接ける。最後の記憶に残る由成の感触は、あの小旅行の帰りに握られていた掌。やさしかった。いつだってやさしかったあの掌は今どうしているだろう。
あの指は、どんなふうに触れていた。あの指、彼の、左手は。
記憶に残る感触を探れば、思いもがけず鮮明にそれを思い起こすことができた。いつも痛々しいくらいにやさしい力で触れた。痛いくせにやさしいだなんて、由成の指でなければ思えない。最初は戸惑うように動いていた指先も、行為に慣れ出したころからは、よく自分を翻弄させた。
――痛くて痛くて泣き出しそうだった。
その指の感触を思い出せば、それだけで寂しい身体は熱を点す。
寂しいな、惨めだな。――虚しいな。そんなことを思いながら、恭一は冷たいテーブルに頬を押し付けて目を閉じる。ひんやりとした冷たさも、突然身体の芯から疼き出した熱を取り去ってはくれない。
当たり前のように火照った身体は、当たり前の動きで右手を自分のために動かした。
とてつもなく空っぽなのに、それでもまだ欲情するのは、男の性だろう、そうでなければ説明がつかない。手放した、決心した、諦めた。――この衝動に、説明がつかない。
この想いは惨めだから強いのか、強いからこそ惨めなのか。冷静に考えられたのはそれまでで、荒くなる呼気と共に指先がぬめりを増した。喉を突いて出ようとした声を抑えようと身体が揺らし、その際ガタリと揺れた椅子の脚に強かに踝を打ちつけても、それくらいの痛みで熱は消えない。
思い描いた左手を、思えば思うほど、感じれば感じるほど、ぼやけた思考に信じられないくらいの快感を齎した。悪酔いだ。こんなのは、悪酔いだ。
視覚で自分がどんな様になっているのか確認するのが厭で、ただひたすらに目を閉じても、濡れた音を響かせてなめらかに滑る指の腹が状態を伝える。硬くなる度、脈打つ度にこめかみ辺りが酷く痛んだ。
吐息に混ぜて、誰かの名前を呼びたかった唇は、その名を紡ぐ瞬間に固く閉じた。覚えのある感覚が背筋を走って、唇を噛んで衝動を留めるよりも早く指先が白濁に濡れる。
僅かに息を弾ませながらぼんやりと見た指先が汚れて、少しだけ視界が歪んだ。涙などでは決してない。そう信じたかった。
――片付けなければ。
こんな悲しい衝動も感情も床に零れ落ちた雫も散らばったガラスの欠片も、全部全部、今すぐに片付けてしまわなければ。
椅子に座り込んだまま、恭一は緩い動きで身を屈めた。
不透明な液体で濡れた指先で欠片を拾う。尖った硬質な先端が鋭く指の皮膚を抉った気がしたが、気にも留めなかった。血も精液も同じ。身体から一度出て行ってしまえば異物なのだ。
――だから同じ。
一度心から追い出してしまった気持ちも異物と同じ。もう二度と帰らなくていい。帰って来なくて、いい。
少しだけ泣いて、同じだけ笑う。
ひび割れた心から流れ出た感情ならもう要らない。戻って来るな。祈るように胸のうちで呟いて、恭一は散らばった欠片を漸く集め出した。
僅かに切れた指先の皮膚から、ポツリと粒のように鮮血が浮く。これくらいの傷なら舐めておけば治るだろう、そのまえに汚れた手を洗い流してしまわなければ。きちんと綺麗に、洗い流して――
――流せるものか。
この感情を、容易く流してなかったことになんてできるものか。
祈っていた。
流れ出て排水口に吸い取られる汚物と同じく、どこか遠くへ流れていってしまえばいいと思うよりも強く。
この感情が、いつまでも自分のものであればいい。必ず自分の元へ帰る、そういうものであればいいと祈っている。
どんなに胸が痛くてもいい、果てには壊れてもいい。この想いをなくしてしまえば、きっと同時に自分は自分としての境界線を失ってしまう。
痛みを持て余しながら祈っている。
まるで自虐にも近く、祈っている。